「聞き手」としての教育者

 基本的には、精神健康をめざす人間固有の力への信頼が一つ。とにかく人間は数百万年生き延びてきたのである。もう少し特殊的には、カウンセリング、相談というものは、狭い意味では一つの技術であろうが、実際には食事や睡眠と重要性においてさほど劣らない人間の基本的活動である、と私は考えている。
 この基本的活動が不活発になることは、精神健康を掘りくずすものであると私は思う。(中略)教育が「引き出す」ということだと、西洋の語源に沿って言われるのは、教育者がよい「聞き手」になることを含意してはいないか。教師は「送り手」であるのと同じくらい「聞き手」であることが重要だと、これは大学教師であった私の反省も含めて思う(中井久夫「教育と精神衛生」『「思春期を考える」ことについて』ちくま学芸文庫、2011年(初出1982年)、pp.111-112)。


*ミュージシャンのSEAMOが、大学のインタビューに答えて、「ラップについて熱く語る僕の話をすごく真剣に聞いてくれる教授(私のこと)がいて、いつもその先生としゃべってましたね。」と回想していました。そう考えれば、私も少しは世の中の役に立っているのでしょう。大学のゼミは、いわば「聴き育て」の場なのかもしれません。