拒食症の「治療」論争と中島みゆき

 かつて、拒食症は、「女になるための病」だといわれたことがありました。「成熟拒否」、「男子羨望」という言葉も用いられていました。(中略)このため、拒食症が「治る」ということは、いったん拒絶された「女性性」を肯定することであり、それゆえにその「治療」とは、「女になること」として位置づけられたのです。
 これに対し、主としてフェミニズムの側からは、このような「治療」理念に対する非難があびせられました。男性にとって、おあつらえむきの「女性性」を構築しようとしている、という非難です。フェミニズムの肩を持つつもりは私にはまったくありませんが(熊田註;著者の高岡氏は反フェミニズムの立場)、それでもこのような非難には、的を射ている面があったと思います。なぜなら、「女になること」が、もし「妻になること」や「母親になること」と同じであるなら、それは日本の一九六〇年代以降の「器」である住居に暮らすにふさわしい「女性性」を、強要するものだからです。
 ただし、このような拒食症の「治療」論争において「女になるための病」という言葉を用いていた人々が、単に「妻になること」や「母になること」を欲求していたとは、私は思っていません。もっと広い意味で、この言葉を用いていたと思っています。これまでの強いられた生き方から離れて、「自分探し」を完成することが、真に「女であること」である、といったニュアンスがあると感じていたのです(高岡健人格障害論の虚像ーラベルを貼ることと剥がすことー』雲母書房、2003年、pp.72-73)。


*私は、かつて摂食障害の自助・ピアサポートグループであるNABA(日本アノレキシア(拒食症)・ブリミア(過食症)協会(Nippon Anorexia Bulimia Association))の出版物で、NABA の事務局で抜群に人気のあるミュージシャンが中島みゆきだと読んで、なるほどなあ、と思ったことがあります。中島みゆきは、天理教の篤信者でもあります。真に「女であること」を求める「自分探し」 のゴールは、案外この辺にあるのかもしれません。