基底欠損

 こうして、客観的・受身的治療関係の維持が困難となり、治療者は巻き込まれて、時には患者を誰よりも優先しなければならない時にはテレパシーで治療者の私生活や内心を透視できる超能力者ではないかと畏怖したりする。患者は嗜癖的依存と荒れたアクティング・アウトに陥りがちとなる。しかし、障害は葛藤ではなく欠損である。実際、患者は自らの障害を「何かが私には欠けている」と表現する。したがって治療は、徹底操作ではなく、指示的・補完的アプローチが適当であって、バリントによれば、治療者は四大(Four elements)のようでなければならない。すなわち、魚を浮かべる水、鳥を浮かべる風などとなって、荒れたアクティング・アウトをも支えとおし、外的満足を求める「悪性退行」(malignant regression)と対比される、認識を求める「良性退行」(benign regression)への転化とそのなかにおける「転機」(new beginning)を契機とする前進とを忍耐強く待たなければならない。治療の目標は、「欠損をかつてもっていたことを受容し、完全治癒を断念すること」である。
 彼は、師フェレンツィこそ対象関係論の祖であって、おのれはその遺志を継承するものであるとし、理論を立てていった。それは、師が治療しようとして自ら倒れた患者と同じタイプの患者を理解し、治療しようとするものであって、「基底欠損」に極まる彼の理論はその文脈におくと理解しやすい。実際、基底欠損の患者とは、しばしば境界例あるいは境界例的な患者であり、この概念はそれらの治療に資するところが少なくない。しかし、「魚を浮かべる水のごとくあれ」という治療指針は欧米よりもわが国のメンタリティに受け入れられる傾向があるやもしれず、邦訳はこの種のものとしては例外的に版を重ねている(中井久夫「基底欠損」『隣の病』ちくま学芸文庫、2010年(初出1991年)、pp.57-58)。


*基底欠損の概念は、境界例の治療にいまでも十分に参考になると思います。