奥の深い大人物と境界例

 実際、DSM-3の境界例の定義も、かねがね境界例は「不安定の安定」だといわれてきたが、それを色々な局面について言っているにすぎない気が私にはする。そして、この定義によれば何が何時突然変化するか分からないようなものであるから、これを相手に治療の手がかりを見いだそうとすることは考えるだけでも難しそうだ。結局、バリントが彼の「基底欠損患者」について言ったように、地水火風になり切って風が鳥を浮かべ、水が魚を泳がせるように、あらゆるアクティング・アウトに耐えて患者を支え続けることしかなくなるが、これはなかなかのことである。地水火風になりきれるくらい茫洋とした奥の深い大人物でなければつとまるまい。ただ、不思議なことにこういう人物のところには境界例はあまり現れないようにみえる。それとも、境界例性が消えて、それと分からなくなるのだろうか(中井久夫「説き語り「境界例」補遺」「世に棲む患者」ちくま学芸文庫、2011年(初出1985年)、p175)。


*「境界例性が消えて、それと分からなくなる」のだと思います。若い頃の私は、「軽症境界例」だったと思いますが、島薗先生の前では「素直」になることができました。