カフカの宗教観

(前略)わたしは、いずれにしてもすでに重く垂れ下がっているキリスト教の手によって、キルケゴールのように生に導かれはしなかったし、ひらひらと逃れていくユダヤの祈祷マントの裳裾の端に、シオニストのようにやっとのことで取りすがったりはしなかった。わたしは終末である。さもなければ発端である(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、p138)。


 人間は、自分のなかにあるなにか<不壊なるもの>、破壊できないものへの永続的な信頼なくしては生きることができない。その際、不壊なるものも、また信頼も、彼には永続的に隠されたままであるかもしれない。こうした<隠されたままであること>を表わす可能性の一つが、人間になぞらえられた<人格神>への信仰である(同上、p169)。


ユダヤ人であったカフカが、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかったものの、極めて「宗教的な」人間であったことがよくわかります。