祈る身体について

鷲田
(前略)
 ミッシェル・セールというライプニッツの研究者であり数学者でもあったフランスの思想家がいます。(中略)心と身体を分けるというのは一つの抽象なのですが、もっとひどい抽象は心は身体のどこにあるかという問いにあります。喉にあるとか眼にあるとか。ハートというのは比較的最近ですね。一番最近の考えは脳にあるということで、いろんな解釈が出てきたのですが、彼はそもそも心の場所を問うのは、すでにボディの立場から言っているのじゃないかと考えた。ということで、彼のは「折りたたみ」説。これは僕が勝手に名づけたものです。つまり魂というのは人間の皮膚が自分自身に接触するところに生まれているというわけなんです。(中略)身体の中で魂というのは、いわゆる自己接触を起こす場所で移動している、というふうに彼は考えたんですね。そういう意味で魂は流動するものであって、その地図を一つの痕跡として、魂の移動した痕跡がタトゥーだというんです。(中略)そういう現象から身体を見ていくといろんなものが見えてくるのではないでしょうか。
(中略)
中井
 最初の自己確認というのは、胎児が指をしゃぶるときでしょう。このとき唇が指をしゃぶっているのか、指が唇をしゃぶっているのか、それはわからないけれど、最初の自己確認ということも関係していそうですね(中井久夫鷲田清一「「身体の多様性」をめぐる対談」中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年(初出2003年)、p346-347)。


*世界の諸宗教で、ほぼ共通して、「祈る」ときには、(身を清めた上で)超越者にむかって「合掌」する―手と手を合わせる―のは、セール流の言い方をすれば、超越者に向けて「魂」を差し出しているともいえるでしょう。


<参考>心はどこに?脳か心臓か
http://globe.asahi.com/feature/memo/2014031400016.html より転載
心はどこに? 脳か心臓か


胸が高鳴る、胸が痛む──。心の状態を表す言い回しには、「胸」を使うことが多い。心は、心臓(胸)にあると考えられてきたからだ。英語も同じで、「heart」という言葉には、心と心臓の両方の意味がある。
歴史をさかのぼると、紀元前3000年ごろから古代エジプトでは、心臓は心を表すと考えられていた。そのころ、永遠の生命を求めて、多くの人がミイラにされた。ミイラは内臓を取り除かれたが、心臓だけは大切に残された。
紀元前4世紀ごろになると、古代ギリシャの哲学者プラトンが、理性は頭、感情は胸、欲望は肝臓にあると考えた。だが、弟子のアリストテレスは、脳は体内の熱を逃がす臓器だと考えていたようだ。徳島大准教授の山口裕之は「心がどこにあるかは近代的な問いで、当時はそのような発想はなかったのではないか。17世紀ごろになり、心と脳に密接な関係があると考えられるようになった」という。神経の仕組みが徐々に分かってきたからだ。
現代では、多くの人が、心は脳にあると考える。脳がときめいた結果、心臓の鼓動が増える、つまり、「胸が高鳴る」わけだ。ただ、心臓の鼓動なども、心をつくるのに影響を与えると考える研究者もいる。心臓のどきどきも、ときめく心の一部なのだろうか。
(中川仁樹)
(文中敬称略)