中井久夫の「余裕(ゆとり)」概念について

 大貫(熊田註:文化人類学者の大貫恵美子)は、わが文化における「物態化」physiomorphism(レヴィ=ストロースの用語)をも指摘しているが、わが国の精神科臨床においては、「余裕感」のごとき、身体感覚、存在感覚、行動の自由感などの多次元的な感覚を含む広義の「一般感覚」が重要であって、逆に“理性的”西欧における、医師側の「病識」の追求は、あるいは文化的に馴染まないのかもしれないと私は思う。安永浩(熊田註;精神科医)が繰り返し指摘するように、スキゾ気質者、統合失調症患者においては認識と知覚とが非常に近い(たとえば新鮮な幻聴と妄想とはきわめて近い)のであってみれば、健康化への方向の身体感覚に裏打ちされない病識はむしろ危ういものである(中井久夫「精神科の病と身体」『「伝える」ことと「伝わる」こと』ちくま学芸文庫、2012年(初出1985年)、pp.26-27)。


中井久夫氏の人間観のキー概念である「余裕(ゆとり)」は、西欧における、1.おそらく古代の奴隷制に由来する強固な心身二元論、2.キリスト教文化に由来する、精神を神に、肉体を悪魔に近いものとする発想、の二つを、日本の宗教文化(おそらくは「からだは借り物、心ひとつ我が物」とする天理教の影響があるでしょう)に合わせて、「再身体化」したものとみることができます。