統合失調症と天理教

 天理教の布教所には、じつにおおらかな、家庭的なホンワカとしたムードがある。これはひとつの発見であった。今まで、私の家にもほかの職場にもなかった、自由な、何をしても許されそうな雰囲気がある。私の育った家では、いつも親の顔色を見て、お客のような、行儀の良いよそよそしい態度でしか接しられなかった。学生時代も、いつも自分を意識し、自分が高いところから見下ろすような感じの対人関係であった。それに比べ、実に住みよい場所を発見したものである。これなら一生いてもいいと思うようになった。初めて教えていただくおつとめ、お手振り、鳴物、覚えれば覚えるほど自分のものになっていく。意欲が湧き、一生懸命覚えた(道友社(編)『分裂病(ママ)よ、ありがとう』道友社、1983年、p54)。


(前略)精神病を妄想病あるいは理性の病と考えることの非はすでに述べた。患者が求めているのは、悟りよりも「ゆとり」であると私は思う(中井久夫「精神病的苦悩を宗教は救済しうるか」『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年(初出1989年)、p318)。


*上の例は、統合失調症患者に天理教が「ゆとり」を与えることに成功したケースでしょう。