ひとりで生きる現実は夢

「ふたりで見る夢は現実」(オノ・ヨーコ

だとすれば、「ひとりで生きる現実は夢」でしょう。

自分ではない誰か。
目の前にいて自分を見つめてくれる誰か。
自分がいなくなってもその場に在りつづけ、自分と同じように世界を眺め語り死んでいくであろうそんな<他人>を信じることは、きっとそのまま私たちの生きる世界を信じることであり、それが唯一の<現実>であることを信じることに違いない。
 そんな<他人>に会いたい。
 その出会いの後には、私は決して今の私ではなく、現実は<私の現実>ではない唯一のかけがえのない<現実>となって私の前にひろがるに違いない。
 今<希望>や<救い>を語ることは、そんな出会いを通過することにはあり得ないのではないかと、そう思えてなりません。
押井守天野喜孝天使のたまご徳間書店、1985年、p154-155)

 管見では、「天使のたまご」(OVA、1986年)は押井アニメの最高傑作です。しかし、1985年に、押井守のこの問題意識は早すぎました。「天使のたまご」を制作したことによって、押井は「訳の分からないものを作る作家」としてしばらく商業的に「干される」状態になります。押井が世界的映像作家として認められるようになるには、20年の歳月が必要でした。
 押井の問題意識を宗教社会学の観点から言い換えれば、「仏教的な無常感」(竹内整一)を宗教的背景とした、「個人化する社会」(バウマン)における「重要な他者」(G・H・ミード)の問題、と言うことができるでしょう。

ー「無の絶対は、神の絶対と同じように強いものである」(伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」岩波文庫、1981年、p55)

 救済という観点から見れば、そこには救済の名に値する救済などありません。しかし、にもかかわらずその視線の先は、いわば絶望の奈落に落とし込むようなものではなく、逆に「生命の強靱さ」なるものを浮かびあがらせるものになっています。こうした反転が可能であったのは、その孤独がさびしい孤独でありながら、まさに増田さんの指摘(熊田註;増田正造「能の表現」)のごとく、「宇宙の運行を思わせて、淡々と、あるがままに徹して流れた偉大な孤独」ともいうべきものであったことにあると思います。月が月としてあり、山が山としてあるような、宇宙そのもの、自然そのもののありよう、「おのずから」のありようへと突きぬけ、それにふれたところで、「みずから」の存在や働きがある像を結んできているということです。
 それはまさに、孤独の、「ある」か「なき」かの一隅・一瞬としてたしかめられた、ということだとも言っていいように思います。これもまた、ひとつの「透徹」した「色即是空、空即是色」の表現です(竹内整一「『はかなさ』と日本人ー『無常』の日本精神史」平凡社新書、2007年、p216-217)。

 私は、少女(女性)は、ラストでは「(天使のたまごという)夢への囚われ」から解き放たれて、「成仏」したのだと思います。キリスト教的世界観を流用しているので、あのように「少女は異神になった」表現するしかなかったのではないか、と思います。キリスト教的世界観を借りていますが、この作品の感覚は日本の「能」に近いと思います。
 「天使のたまご」は、(70年安保に)「遅れてきた青年」が作った「出オタク論」だと思います。