信仰治療をめぐって
(前略)みなさん、プラセボ反応を知っているでしょう。全然効くはずのない薬が、飲むと効くわけ。それは簡単に言うと「信じる者は救われる」ということです。「信じる者は救われる」ということはおそらく、これから先はボクの考えだけども、このケアされている環境で最も自然治癒力が賦活された記憶が生命体に残っていて、そして、出された薬と出した先生とかで作られている状況が、自分をケアし保護してくれると信じることによって、自然治癒力が最大限に発揮される、というのがプラセボ反応です(神田橋條治「いいお医者さんになってください」『神田橋條治/医学部講義』創元社、2013年(初出2009年)、p230)。
お互いが信じ合わないように、訴えられてもいいようにするとなったら、これは精神療法にならないです。だけどお互いが分かるように、同じものを見て、考えて、意見を言うようになっていれば、これは精神療法になる。これをやってほしい。
(中略)
こういうことが実は精神療法なの。これが一般医ができる精神療法なんです。一般医ができる精神療法とは、そういうふうに自分がやる医療行為の中に患者を参加させて、意見を聞いて、そしてこっちも意見を言って、ということが一番いいんです。それ以上の、なんだか邪魔になっているものを除くという狭い精神療法は専門家に任せておいていい。
そして、専門家がやる精神療法というのは、今、話しているような「基本的なケアをする」そして「同じものを一緒に見て、お互いに意見を交換する」という精神療法に比べたら、さほどすばらしいものではないの。
「患者と一緒に一つの問題を考えて、意見を出し合っていく」ということが基盤になければ、それが消えてしまっていれば、それはケアする精神が消えている精神療法ですから、そういう精神療法はすべて患者を操っているんです。操っている精神療法は、技術偏重の精神療法です。精神療法が発達してしまったので、技術偏重の風潮が出てきています(同上、pp.235-236)。
*信仰治療(宗教による病気治し)の医学的メカニズムを考える上で、示唆的な意見です。「精神療法における技術偏重の風潮」は、昨今の「セラピー文化」に鋭い問いを突きつけていると思います。宗教者の身体を媒介とした「代受苦的救済」とは、「患者と一緒に一つの問題を考えて、意見を出し合っていく」ことの先鋭的な形なのでしょう。