小説『1Q84』における悪の表象について

愛知学院大学文学部紀要』40号原稿(2011年3月刊行)


<題名>「小説『1Q84』における悪の表象について」
<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)


<Title>About the Representation of the Evil in the Novel “1Q84
<Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor of Department of Religious Culture)


<要旨>
 本稿の目的は、社会現象にまでなった村上春樹の大ベストセラー『1Q84』(1-3、2009-2010年)における悪の表象を分析することにある。この小説では、「リトル・ピープル」という邪神たちが、オウム真理教をモデルにしたとおぼしき「さきがけ」というカルト教団を操っている、と設定されている。この「リトル・ピープル」という邪神たちの造形には、ユングの分析心理学だけではなく、「人間の理解や定義を超えたもの」とされている点で、ラヴクラフトのSF的な恐怖小説の影響を見て取ることができる。ラヴクラフトの恐怖小説には、「実存主義のポップ版」としての側面がある。最後に、現代の先進国の個人主義的な人々が、こうした悪の表象にひきつけられる社会的背景として、救済宗教の神話的世界観が縁遠くなったことと人間関係が希薄化したことを指摘する。


<キーワード>
1Q84』/悪の表象/ラヴクラフト/実存主義/非社会的個人主義


―悪というものはときによると、こちらが気づいているかどうかは別として、道具のように手のなかにある。そのつもりになれば、苦もなく脇へどけることができる(カフカ1996、p.190)。


1.はじめに―『1Q84』と悪の表象
 村上春樹(1949-)の長編小説『1Q84』(いちきゅうはちよん)(1-3、2009-2010年)は、2010年5月13日時点で既にシリーズ総計で300万部以上売り上げ、もはや社会現象とまでなった現代日本の大ベストセラーである。本稿の目的は、現時点までに刊行された第1巻から第3巻までの作品を対象として、宗教心理研究の観点からそこに見られる「悪の表象」の性質を検討し、現代日本の本を読むような個人主義的な人々がそうした悪の表象に惹きつけられる社会的背景を検討することにある。
 この小説では、オウム真理教および山岸会をモデルにしたとおぼしき新宗教教団「さきがけ」と、エホバの証人をモデルにしたとおぼしき新宗教教団「証人会」が重要な役割を果たしている。村上春樹は、『アンダーグラウンド』や『約束された地で―underground2』において、1995年のオウム真理教(当時)による地下鉄サリン事件を取材したノンフィクション作品を書いている(村上1999(初出1997)、2001(初出1998))。したがって、この小説における新宗教教団「さきがけ」の考察には、村上のオウム真理教事件に対する考察がなにがしかは込められていると考えられる。
 この小説の粗筋は、次のようなものである。10歳の時に出会って、離ればなれになった女性主人公の青豆と男性主人公の天吾は、この世界において自分一人で生きていく孤独に耐えながら、リアリティの感じられない日々を暮らしていた。しかし、1984年に二人とも同じ新宗教教団「さきがけ」に対する活動にそれぞれが巻き込まれていく。そして、青豆は現実とは微妙に異なっていく不可思議な1984年を「1Q84年」と名付ける。Book1、Book2では、スポーツインストラクターであり、同時に悪質なDV加害者男性を抹殺する暗殺者としての裏の顔を持つ青豆を主人公とした「青豆の物語」と、予備校教師で小説家を志す天吾を主人公とした「天吾の物語」が交互に描かれる。Book3では2つの物語に加え、青豆と天吾を調べる探偵・牛河を主人公とした「牛河の物語」が加わる。この小説の粗筋を、孤独に生きている普通の男性主人公・天吾とヒロイン・青豆とが、<セカイ>を代表して、オウム真理教をなにほどかはモデルにしたとおぼしき「さきがけ」というカルト教団を操っている悪の根源、「リトル・ピープル」という名のラヴクラフト的な「邪神」たちと戦う、と言い換えることも可能である。
 「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する、(初出1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』以降の)作品群」のことを指して、<セカイ系>と呼ぶ論者もいる。その意味では、天吾と青豆の恋愛(純愛)が、カルト教団「さきがけ」を操る邪神たち「リトル・ピープル」との戦いに具体的な中間項を挟むことなく直結している『1Q84』は、典型的な<セカイ系>の物語である(1)。
 文芸評論家の斎藤美奈子は、初期の村上春樹を「住宅街のはずれにあるこぢんまりとした喫茶店」にたとえ、読者はそこに集まる客であり、次々に発表される小説はゲーム機であるとしている。こぢんまりとした喫茶店からどんどん進化を遂げるハルキランド。客はあたえられたゲーム機に込められた謎を一生懸命解こうとする。そしてついにハルキランドはゲームを置いている喫茶店からゲームセンターに変貌する。そのようなたとえで村上春樹の小説に込められたメッセージを解読しようとムキになっている読者(批評家たち)を揶揄している(斎藤2006(初出2002))。本稿は、斎藤が揶揄するような「村上春樹作品の謎解き」に参加するのではなく、『1Q84』に登場する「リトル・ピープル」という「悪の表象」の特徴とそれが広範な読者に受容された社会的背景を実証的に分析する試みである。


2.「リトル・ピープル」とは何か
 『1Q84』では、オウム真理教をなにがしかはモデルにしたとおぼしきカルト教団の「悪の権化」と思われていた指導者が、実は「リトル・ピープル」という超自然的存在の単なる「代理人」に過ぎなかった、と設定されている。そして、連合赤軍事件をモデルにしたとおぼしき過激派集団(「さきがけ」の分派「あけぼの」)の暴力犯罪も、「リトル・ピープル」が引き起こした、とされている(2)。
 オウム真理教信者の独特の無機的な冷静さと教団の暴力性の根源は、「他者との共感共苦を断つことによって心を安定させよ」という聖無頓着(初期には四無量心とも呼ばれた)の教え、原始仏教の名を借りたニヒリズム思想にある(島薗1995)。しかし村上は、オウム真理教事件を取材したノンフィクション作品である『アンダーグラウンド』でも『約束された場所で』でも、教団の聖無頓着の教えには特に言及していない(村上1999(1997);2001(1998))。村上は、オウム真理教の暴力性の根源が聖無頓着の教え、原始仏教の名を借りたニヒリズム思想にあることが理解できていないのだと思われる。
 村上は、ユング派の心理学者である河合隼雄との対談で、「宗教の個人化」の推進を主張する河合に反論して、教団宗教の必要性を主張している。


(河合)天才的な人は最初からこんな馬鹿なことはしないです。たとえば親鸞なんか「弟子はとらない」と言っています。しかし言っているにもかかわらず、あとになってあれだけすごい教団ができてしまった。だからもう、これからは宗教性の追求というのは個人でやるより仕方ないんじゃないかと僕は思てますけれどね。
(村上)異議を唱えるようですが、個人でそれができるほど強い精神を持っている人は、多くの場合宗教なんかにいかないんじゃないでしょうか。宗教を求める世間の大多数の人は、個人でやっていくことはむずかしいだろうと僕は思うんですが(村上2001(初出1998);pp.317-318)。


 このように教団宗教の存在を全否定はできないものの、オウム真理教事件における教団の暴力性はもちろん認めることはできない。しかし、オウム真理教の暴力性の根源が、根本教義の「聖無頓着」という原始仏教の名を借りたニヒリズム思想にあることは理解できない。そこで村上は、教団宗教を操る「リトル・ピープル」というラヴクラフト的な邪神の存在を想定するようになったのではないか。
 しかし、村上は宗教学者ではなく小説家であり、また『1Q84』に登場するカルト教団「さきがけ」は、オウム真理教をなにがしかはモデルにしているとはいえ、もちろんオウム真理教そのものではない。従って、『1Q84』がオウム真理教ニヒリズム思想を理解しておらず、代わりに「リトル・ピープル」という邪神たちの存在を想定しているからといって、もちろんそのことで村上が非難される筋合いはない。本稿では、虚心坦懐に村上が「リトル・ピープル」について語ることを聴いていこう。
 以下の引用は、カルト教団「さきがけ」の指導者が、自分を暗殺しにきたヒロイン・青豆に対して、自分は「リトル・ピープル」の「代理人」にすぎないと打ち明け、青豆に対して「リトル・ピープル」とは何かを説明している部分である。


  光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなければならない。光のない影はなく、また影のない光はない。カール・ユングはある本の中でこのようなことを語っている。
 『影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意志を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものとなるのと同じくらい罪深いことであるからだ』
 リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らとともに生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明であったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ(村上春樹1Q84』BOOK2、2009年;pp.275-.276)。


 ここで、「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。」とされているところが注目される。「村上春樹ロングインタビュー」で、村上は「リトル・ピープル」について次のように補足説明している。


 「1Q84」の世界というのは、言うなればリトル・ピープルが地下から這い出してくる世界なんです。リトル・ピープルが何かというのは、僕自身うまく説明できないんだけれど、原始的な世界、地下の世界からのメッセンジャーだというふうに漠然と考えてもらえるとわかりやすいかもしれない(『考える人』、2010年夏号、p.44)。


 物語に関していえば、僕にある程度わかっていることもある一方、よくわからないこともあります。一例をあげれば、リトル・ピープルはどういう存在で、彼らが何を目的としているのか、正確なところは作者である僕にもわからない。でも、僕はリトル・ピープルの存在をはっきり確信しているし、それが具体的にどういうものかはまだわからなくても、リトル・ピープルのいる世界がどういうところなのかはよくわかっています。作家にとってはそれがいちばん大事なことですよね(同上、p.56)。


 この「リトル・ピープル」という悪の表象の造形には、村上が強い関心を寄せており、ここでも引用されているカール・グスタフユング(1875-1961)の分析心理学、とりわけその「集合的無意識」の概念の影響が見られる。最後の引用部分で、村上が「リトル・ピープルの存在をはっきり確信している」というのは、「リトル・ピープル」が人間の「集合的無意識」の水準に存在していることを確信している、という意味であろう。しかし、「リトル・ピープル」の造形には、「我々(熊田註;人間)の理解や定義を超えたもの」とされている点で、ユングの分析心理学に加えて、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの恐怖小説、いわゆる「宇宙的恐怖」(コズミック・ホラー)の影響が見られるように思われる。


3.村上春樹ラヴクラフト
 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890-1937)は、「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」などと呼ばれるSF的なホラー小説で有名である。「H・P・ラヴクラフト」と表記されることも多い。また文通仲間の間では「HPL」と呼ばれていた。ラヴクラフトの死後、彼の小説世界は、年少の友人の作家オーガスト・ダーレスによりダーレス独自の善悪二元論的解釈とともに体系化され、クトゥルフ神話として発表された。そのため、ラヴクラフトクトゥルフ神話創始者とも言われる。ただし、ラヴクラフトの宇宙的恐怖を主体とする小説世界を原神話やラヴクラフト神話と呼び、クトゥルフ神話と区別することもある。
 生前はパルプ作家としてそれなりの人気はあったものの、文学的に高い評価は受けておらず、出版された作品も極めて少なかった。しかし死後、ダーレスの創立した出版社「アーカム・ハウス」から彼の作品群が出版されたことをきっかけに再評価される。エドガー・アラン・ポーと並んで現在も世界中の怪奇幻想小説界に多大な影響を与え続ける存在であり、スティーヴン・キング菊地秀行など人気作家にも愛読者は多く、アメリカ怪奇・幻想文学の巨匠の一人として数えられる(Wikipedia「ハワード・フリップス・ラヴクラフト」)。
 クトゥルフ神話は多数かつ多様な作品によって構成されており、その源泉を単純に述べることは困難だが、創始者とされるラヴクラフトのホラー小説においては宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)という概念がテーマとして挙げられる。これは無機質で広漠な宇宙においては人類の価値観や希望などは何の価値もなく、人はただ盲目的な運命に翻弄されるのみであるという不安と恐怖をホラー小説の形式で描いたものであり、理性を超えた狂気と混沌、吸血鬼や幽霊など伝統や文化にもとづいた恐怖を排除する傾向、宇宙空間や他次元などの現代的な外世界を取り上げるなどの要素がある。しかし、ヒロイック・ファンタジーの文脈を取り入れたロバート・E・ハワード善悪二元論的な作品を描いたオーガスト・ダーレスブライアン・ラムレイを始めとしてコズミック・ホラー以外のテーマを持つ作品も多く存在する。
 ラヴクラフトクトゥルフ神話に描いた恐怖は、彼自身の恐怖感に由来していると考えられている。彼の作品には、自身の家系から来る遺伝的な狂気への恐怖、退行、悪夢などいくつかの共通したモチーフが見られる。また、ラヴクラフトは海産物に対して病的な恐怖を抱いていた(Wikipediaクトゥルフ神話」)。
 村上春樹ラヴクラフトを愛読している。文芸評論家の森瀬繚氏のご教示によれば、まず、村上は国書刊行会『定本ラヴクラフト全集』刊行時の宣伝ビラにて推薦文を書いている。村上の夫人がラヴクラフトの愛読者で、村上も夫人の影響で読むようになったという(森瀬2010)。この話は森瀬氏が、当時、国書刊行会勤務の編集者であり、『定本ラヴクラフト全集』にも関わった作家の朝松健から聞いたものだそうである。『幻想文学』誌3号のインタビューでも「ラヴクラフトが好き」と発言しているし、評論家の風間賢二が村上とやりとりをした折にも、ラヴクラフトを読んでいる旨のことを発言している(風間1995)。
 私は、村上がラヴクラフトの作品から悪の表象をそのまま借りてきたといいたいのではない。村上自身が、自分の別の小説作品『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』における悪の表象とラヴクラフトの関係について、次のように説明している。


 なにも単純にオウム真理教ラブクラフト(ママ)的に邪悪な「やみくろ」の群だと言っているわけではない。私が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の中で「やみくろ」たちを描くことによって、小説的に表出したかったのは、おそらくは私たちの内にある根源的な「恐怖」のひとつのかたちなのだと思う。私たちの意識のアンダーグラウンドが、あるいは集団記憶としてシンボリックに記憶しているかもしれない、純粋に危険なものたちの姿なのだ。そしてその闇の奥に潜んだ「歪められた」ものたちが、そのかりそめの実現を通して、生身の私たちに及ぼすかもしれない意識の波動なのだ(村上、1999年(初出1997)、p.774)。


 『1Q84』において、村上は、「人間の理解や定義を超えたもの」という点はラヴクラフトの描く邪神たちから継承しながら、「根源的な『恐怖』」を「リトル・ピープル」という形で描き出そうとしただろう。


4.グノーシス/実存主義/ラヴクラフト
 ラヴクラフトの恐怖小説には、哲学における実存主義のポップ版としての側面があり、マクロに見れば、グノーシス主義の系譜に連なっていると見ることもできる。宗教学者のハンス・ヨナスは、古代ヘレニズムの宗教であるグノーシス主義と現代哲学における実存主義の関係を、以下のように説明している。


 こうしてわれわれの探求はふたたび人間と自然(フュシス)の二元性へとわれわれを導く。これこそがニヒリズム的状況の形而上学的背景である。しかしグノーシスの二元論と実存主義の二元論のあいだには基本的な差異があることも看過してはならない。グノーシス的人間は、敵意ある、反神的な、したがって反人間的な自然のなかに投げ込まれるが、現代人は無関心な自然のなかに投げ込まれている。後者の場合にのみ、絶対的な真空、真に底無しの深淵がある。グノーシス派は、敵意あるもの、ダイモーン的なものを依然として擬人的に考えている。それは、その異邦性においてさえ親密なものであり、この対比自体が実存に方向づけをあたえるーたしかにそれは否定的な方向づけだが、その背後には否定的超越があってこれを裁可しているし、しかもこの否定性は世界の肯定性のなかに質的対立項をもっている。しかし、現代科学の無関心な自然にはこの敵対的な性質すらも認められず、そこからはいかなる方向づけも導き出すことができない(ヨナス1986(原著1964)、p.449)。


 ラヴクラフトの「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」などと呼ばれるSF的なホラー小説に登場する邪神たちは、ハンス・ヨナスの言う実存主義における人間に対して「無関心な自然」を擬人化ないし「疑神化」したものと見ることができる。評論家のコリン・ウィルソン(1931-)は、哲学として見れば難解すぎる実存主義は、アカデミックな哲学よりもSFの方と多くの共通点をもっていると指摘している。


 この点に関して率直な態度を執ってみよう。「旧来の実存主義」が固定化して動きがとれなくなった理由の一つは、余りアカデミックな哲学と妥協しようとしたことだった。ヤスパースハイデッガーサルトルのテキストで遭遇する表現の難解さは大部分が、アカデミックな尊敬を得る哲学に欠くことができないと著者が考えている難解さである。
 真実は、実存主義がアカデミックな哲学よりも、SFのほうと多くの共通点をもっているということである(ウィルソン1974(原著1966)、p.203)。


 ラヴクラフトの母親はピューリタンであったが、ラヴクラフト自身は、首尾一貫して無神論者であり合理主義者であった(ウィルソン1985(原著1978))。ラヴクラフトのSF的なホラー小説は、もはやキリスト教の神を信じないという欧米の実存主義者が感じる「絶対的な真空、真に底無しの深淵」を小説化したものと考えることができよう。


5.おわりに―非社会的個人主義と悪の表象
 以上見てきたように、小説『1Q84』における「悪の表象」、「リトル・ピープル」という名の邪神たちのイメージには、ユングの分析心理学だけではなく、「人間の理解や定義を超えたもの」とされている点で、ラヴクラフトのSF的な恐怖小説の影響を見て取ることができる。
 1995年のオウム真理教事件を文学的に総括したという側面もある小説『1Q84』と「リトル・ピープル」という悪の表象が広範な読者に受け容れられた社会的背景としては、もちろん、救済宗教が説く神話的世界観、とりわけキリスト教が説くような「至高善たる神」の存在が、現代日本の本を読むような階層の人々には縁遠くなっていることが挙げられる。プロテスタントの牧師の家に生まれたユングも、2度の世界大戦を経験して、もはや単純に正統派のキリスト教が説く「至高善たる神」の存在は信じることができず、その晩年には「善と悪とを併せ持つ神」を信じるようになっていた。若いころは天文少年でもあったラヴクラフトは、近代科学は信じたが、無神論者で合理主義者であった。
 しかし、『1Q84』が大ベストセラーになった社会的背景には、単に現代日本の本を読むような階層の人々には救済宗教が説くような神話的世界観が縁遠くなった、ということだけではなく、このような階層の人たちの間で、教団という持続的共同体を作ることを厭うような「非社会的な個人主義」が広がっていることも挙げられよう。
 本稿の第2節で、オウム真理教事件を取材した村上が、この自称「宗教」教団の暴力性の根源には、「聖無頓着」の教えという原始仏教の名を借りたニヒリズム思想があることを理解していないことを指摘した。『考える人』(2010年夏号)に掲載されたロングインタビューを読むと、村上自身が隠者のような、あるいはひきこもりのような執筆生活をしていたことがわかる。自分自身がそうした準「ひきこもり」的な生活をしている村上にとって、「聖無頓着」の教えの問題点が見えなかった理由のひとつは、「自分のライフスタイルに身近すぎる」ためだったのではないか。
 エコノミストの三ツ谷誠は、村上春樹の作品における悪の表象の特徴について、次のように述べている。

(前略)20世紀後半から現在まで続く村上春樹の異常な人気の背骨にも、「引き篭もり」的な孤独を村上春樹の主人公たちが抱えていることが指摘できるように感じます。幾つかの彼の物語のパターンは(「かえるくん、東京を救う」などに特に濃厚ですが)世界の根源的な悪意に何でもない平凡な人間が、セカイを代表して立ち向かうという構造を持っていて、そのような物語が求められるのは、世界に傷つけられたと感じている現代人が本当に群生しているからだと考えられます(村上春樹だけではなく、少し前のタイトルではありますが、世界の中心で愛を叫びたい人々は、本当にたくさん存在しているのだと思います。共同体を破壊する資本主義の暴力に導かれて)。
 私は偉そうなことを言おうとは今更全く思いませんが、このような「孤独」と「セカイ」の間にこそ、実人生は存在し、そのリアルな感触を取り戻してあげることだけが、傷ついて「引き篭もって」いる若者たちをもう一度リアルな人生に戻す回路になるのではないか、と感じています(三ツ谷2010)。

 三ツ谷は、村上春樹の人気の原因は、「世界に傷つけられたと感じている現代人が本当に群生しているからだ」と説明しているが、村上自身も、『1Q84』に登場する「傷つけられた人々」は自分自身の投影だとも述べている。


 『1Q84』に出てくる傷つけられた人々というのは、極端に拡大され、誇張されたものではあるけれども、僕自身の投影でもあります(『考える人』2010年夏号、p.37)。


 村上の『1Q84』が社会現象になるほど大ベストセラーになったということは、村上自身のような準「ひきこもり」的なライフスタイル、言い換えれば非社会的な個人主義が、現代日本の本を読むような階層の人々の間にそれだけ広まっているということだろう。『1Q84』に、少なくとも第3巻まででは大きく欠落しているものは、<孤独>と<セカイ>との間の具体的な「人と人とのつながり」である(3)。
 もちろん、『1Q84』が大ベストセラーになったというだけで、現代日本社会全体において救済宗教が説くような神話的世界観は人々から縁遠くなっており、非社会的な個人主義が広まりつつあると即断することはできない。アマゾンのサイトにおける『1Q84』の書評には、作品に対して否定的なレビューも多い。また、いくら『1Q84』が売れたといっても、活字離れの進む日本では、多く見積もっても発行部数は2010年8月時点で400万部を超えない。読者は、日本人の5%にも満たない。
 それに対して、『1Q84』と同様、サブカルチャーの側からオウム真理教事件を総括しようと試みた側面があり、カルト教団と戦う具体的な「人と人とのつながり」を生き生きと描いた浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』(2000-2007)と『21世紀少年』(2007)は、すでに累計2800万部を売り上げている(2010年8月時点)。マンガ『20世紀少年』と『21世紀少年』は、小説『1Q84』に負けないくらい広範な読者層に受け容れられているのである。
 私個人としては、『1Q84』が第4巻以降で『20世紀少年』のように具体的な<人と人とのつながり>を取り戻すか、『1Q84』のブームが一過性のもので終わるかのどちらかの方向に今後事態が変化することを期待したい(4)。


<謝辞>本稿を、草稿段階で東京大学島薗進氏に読んでいただき、貴重なアドバイスを賜った。村上春樹ラヴクラフトの関係については、文芸評論家の森瀬繚氏にご教示いただいた。記して深く感謝したい。


<註>
(1)評論家の前島賢は、<セカイ系>について、「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、90年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、オタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群」と総括している(前島2010)。しかし、<セカイ系>という概念は定義がはっきりしていないので、『1Q84』が<セカイ系>の作品かどうかという問題には、本稿ではこれ以上立ち入らない。
(2)連合赤軍事件やオウム真理教事件に典型的に見られるような<悪>や<暴力>の問題をきちんと総括して正面から論じることができないのは、村上春樹に限らず、全共闘世代(世界的にはグローバルな戦後第一世代)の批判的知識人に共通した問題であろう。
(3)現代日本の若者の一部にそうした非社会的個人主義が広がっていることについては、拙著『男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学』(風媒社、2005年)、とりわけ第4章「官僚制的消費資本主義と宗教倫理のセラピー化−オウム事件の深層」を参照されたい。
(4)『1Q84』の第3巻は、続刊があることを暗示する終わり方をしている。


<参考文献>
コリン・ウィルソン実存主義を超えて』福村出版、1974年(原著1966年)
コリン・ウィルソン『SFと神秘主義サンリオ文庫、1985年(原文1978年)
浦沢直樹20世紀少年』1-22、小学館、2000-2007年
浦沢直樹21世紀少年』(上下)、小学館、2007年
風間賢二『快楽読書倶楽部』創拓社、1995年
フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年
熊田一雄『男らしさという病?―ポップ・カルチャーの新・男性学』風媒社、2005年
斎藤美奈子『文壇アイドル論』文春文庫、2006年(初出2002年)
島薗進オウム真理教の軌跡』岩波ブックレット、1995年
前島賢セカイ系とは何か―ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書、2010年
村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫、1999年(初出1997年)
村上春樹『約束された場所で―underground 2』文春文庫、2001年(初出1998年)
村上春樹1Q84』1-3、新潮社、2009-2010年
村上春樹ロングインタビュ−」『考える人』新潮社、2010年夏号
ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』人文書院、1986年(原著1964年)
H・P・ラヴクラフト(著)、宮崎陽介(漫画)(著)、森瀬繚(解説)『クトゥルフの呼び声』(クラシックCOMIC)、PHP研究所、2009年
三ツ谷誠「自室という子宮〜母胎回帰としての引き篭もり」『Japan Mail Media』No.595 Monday Edition、2010年8月2日発行
Wikipediaクトゥルフ神話
Wikipedia「ハワード・フリップス・ラヴクラフト