前思春期の親友関係
自分ではない誰か。
目の前にいて自分を見つめてくれる誰か。
自分がいなくなってもその場に在りつづけ、自分と同じように世界を眺め語り死んでいくであろうそんな<他人>を信じることは、きっとそのまま私たちの生きる世界を信じることであり、それが唯一の<現実>であることを信じることに違いない。
そんな<他人>に会いたい。
その出会いの後には、私は決して今の私ではなく、現実は<私の現実>ではない唯一のかけがえのない<現実>となって私の前にひろがるに違いない。
今<希望>や<救い>を語ることは、そんな出会いを通過することなしにはあり得ないのではないかと、そう思えてなりません。
(押井守・天野喜孝「天使のたまご」徳間書店、1985年、pp.154-155)
*「<性>の侵入」がますます早期化して、サリヴァンの重視した「前青年期の親友関係」が怪しくなった現代、この押井守氏の言葉に惹かれる若者は多いと思います。