「神聖かまってちゃん」の精神病理

 だからこそ(熊田註;「生配信」は、リアルな承認に近い効果を与えてくれるから)と言うべきか、かまってちゃんがカルト的な人気を博し、ライブのチケットが即日完売するほどになって以降も、彼らは生配信をやめていない。これが果たして「中毒」なのか「自己治療」なのかを論ずる余地はもうないが、少なくとも次のことは言えるだろう。「の子」の歌詞は、かつての絶望、自暴自棄的なものから、「仲間を探したい」や最新作「ずっ友」のように、ゆっくりと関係性を志向するものへと変わりつつある。
 僕の知る限り、いじめのトラウマが自然に癒えることがあるとすれば、より親密で安定した関係性によって人間関係が「上書き」された場合だ。いつか「の子」にもそのような契機が訪れることを祈らずにはいられない。少なくとも僕は、それで彼が幸福になってしまうことを「裏切り」と言って憚らないような、浅いファンではないつもりだ(斎藤環「「無敵」のロックンロール!「友達なんていらない死ね」」山登(他編)『ポップスで精神医学』日本評論社、2015年、pp.99-100)。


*私は、斎藤環氏のジェンダー保守の発想にはついていけませんが、確かに、神聖かまってちゃんの「の子」は、治癒しつつある境界性パーソナリティ障害の患者だと思います。