「自発的隷従論」とフランツ・カフカ

 かくも卑劣な行いを少しでも感じたならば、獣たちでさえ決して耐えられないだろう。あなたがたは、わざわざそれから逃れようと努めずとも、ただ逃れたいと思うだけで、逃れることができるのだ。もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそれがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』ちくま学芸文庫、2013年(原著1546年または1548年)、p24)。


 鳥籠が、鳥を探しに出かけていった(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、p154)。


 家畜は、主人の鞭をのがれ、自分自身を鞭打って主人の立場に立とうとするが、それがただの幻想にすぎないことを知らない。主人の鞭紐にあたらしくつけた結び目から生じた、幻想にすぎないことを」(同上、p160)。


 つなぐ馬を増やせば、その分あっさりとことが運ぶ―つまり建物の基礎から石材が引っこ抜かれたのではなく(そんなことは不可能だ)、馬の革紐のほうが引きちぎられて、そのために馬だけの、空白にして楽しき行進となる(同上、p167)。


*16世紀に書かれた「自発的隷従論」と比べると、20世紀を生きたフランツ・カフカの「権力」に対する悲観的な見方が際立ちます。