森田療法の再評価

 かちっとした型でありながら、それが本人のなかの自己実現をインキュベートするような、孵卵器のような役をする。そういう型が、いくつかの精神療法的なもののなかにあるんじゃないかと思うの。
 それはすべて、型に嵌めるから不自由なものですよね。坐禅なんかもそうだし、修道院の無言の行、何日もすーっと喋らんで暮らす。そういうのもありそうだ。何か不自由な型のなかに嵌め込むことによって、その型に嵌る前よりも、さらに自由なものが立ち上がってくるという精神療法があるだろうと思います。
 この震災でも同じことが起こるかもしれない。それは復帰とか復活ではなくて、「復興」というような言葉が合うんではないかと思うの。
 それから日本民族は、太平洋戦争のときに、饑餓で食うや食わずやになってしまって、そこを通ってきたために花開いた部分もあるのではないか、人間は苦労することによってかえって大きくなるというような、そういうさまざまなことを包含した精神療法のひとつとして、森田療法なんかがまた脚光を浴びることがあるのではなかろうかと思います。
 まあ、認知行動療法がいちばん現実に適応していく治療法だ。それから、その他の内省精神療法は、可能性をいっぺん、ふわーっとしたなかに作ることによって、そこから何かが立ち上がってくることに期待する。そしてもうひとつ、森田療法や一般の修行みたいに、ある窮屈な型のなかに嵌めて、個性をいったん潰してしまうことを経て、そこから型を脱して、新しいその人の生まれ持っている生命力や個性が出てくるという形の治療法があるのではないかと思うの(神田橋條治「震災ボランティアに聞いた」『神田橋條治/精神科講義』創元社、2012年、p.358)


*「森田療法なんかがまた脚光を浴びることがあるのではなかろうかと思います」というのは私も賛成です。


「不安障害の信仰治療についてー天理教の事例からー」
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20110907/p1