品格ブームと無差別殺人

 秋葉原における7人が被害者となった無差別殺人事件が社会的話題となっています。この事件は、昨今の新自由主義の風潮と切り離して論じることはできないと思います。
 2007年度最大のベストセラー、坂東真理子「女性の品格」(PHP新書、2006年)では、ブームとなった「品格」という言葉を次のように説明しています。この本で、坂東さんは、人間関係のゴールデン・ルールは「自分がしてほしくないことは人にもしない」という孔子の教えだとしています。「自分がしてほしくないことは人にもしないというのは品格のある生き方の基本です。これは孔子の教えですが、キリスト教では自分のしてほしいように相手にしないさいといいいます。同じことを言っているようですが少し違います。自分のしてほしいことを相手がしてほしいと思っているとは限りません。人の好みはさまざまだからです。でも自分が嫌だと思うことは、たいてい人もしてほしくないと思っています。」(同上、p212)
 しかし、「自分がしてほしくないことは人にもしない」を人間関係のゴールデン・ルールとしている人が、死にたくなったら、あるいはそういう人は珍しいでしょうが、殺されたくなったらどうするのでしょうか?次の文章は、私が教えていた学生のレポートを、本人の許諾を得て転載したものです。

  今はおさまっているが、つい2,3年前まで「殺したい」要求と「死にたい」要求ではちきれそうだった。「殺したい」と思ったら、想像の中でメタメタにし、物を破壊し、最後に「法律がなかったらなあ」としみじみ思う。「殺したい」時は、私の場合、誰でもよい場合が多かった。すんごいすっきりしそうだし、殺してみたいとただ思ったりした。でも知っている人は殺せない。知らない人なら殺せる。そんな時、「サカキバラセイト」の事件が起きて、大人たちが騒いだ。「みんなこれぐらいのこと は考えているのに、なぜあわてる」と思った。でも、想像していたことを実行するかしないかということは重大なことだと今は思う。結局なぜ私は殺さなかったのかというと、「周囲に迷惑をかけたくなかった」と「牢屋に入っている時間がもったいない」という理由だったと思う。生きることが困難な状況 でも「生きたい」と思っている人もいるのに、「死にたい」人もたくさんいて・・・。「死にたい」と「殺されたい」とは違うと思うが、「死にたい人と殺したい人」が偶然、そうなれば丸くおさまるのにと思ったりもした。だが今は「殺してはいけない」とは思うがよくわからない。

 このような人が、万一「周囲に迷惑をかけてもよい」「死刑になってもよい」と考えるようになれば、秋葉原の無差別殺人事件にもう一歩のところにくるでしょう。新自由主義的な「セラピー化した宗教倫理」(拙著「男らしさという病?」風媒社、2005年参照)が、その「脆さ」を露呈させたのが、今度の秋葉原における無差別殺人だと見ることもできます。