「癒し」の罠について

宗教社会学の会(編)「新世紀の宗教―聖なるものの現代的諸相」創元社、2002年より再録

5・「癒しを求める人々」の陥りがちな罠
 最後に本節では、現代日本で「癒しを求める人々」が陥りがちな罠について、1・「心のコントロール法」から「他者不在」へ転落する危険性、2・商業主義の問題性、3・「心の管理化」の可能性、の3点に絞ってごく簡単に述べたい。
(1)「心のコントロール法」から「他者不在」へ転落する危険性
 1995年の「オウム真理教事件」は、その恐るべき暴力性によって日本中を震撼させ、副次的に宗教界全体のイメージを一気に悪化させた。島薗が指摘するように、オウム真理教の暴力性の根幹にあるのは、オウム真理教の根本教義にある「聖無頓着(初期には平等心と呼ばれていた)」の教えである(島薗1995)。この心理統御技法の要は、自然な感情や疑いや、とりわけ人と人とのつながりを否定し去ることにある。オウム信者に特有の無機的冷静さの背後には、この教えと心理統御技法がある。オウム信者には、「他者不在の安らぎと喜び」を追求している側面があるのかもしれない。
 前述したように、70年代以降の新新宗教には、対他倫理よりも心理統御技法を説くものが少なくない。また、世俗的成功の価値に対して冷ややかな現世離脱的宗教性を説く教団も出現している。もちろん、オウム真理教以外の対他倫理よりも心理統御技法を重視する新新宗教では、「心のコントロール法」が他者不在の教えにならないように、信仰指導においてさまざまな工夫が周到に凝らされている。内観法の流行を、そうした工夫の一例として捉え返すことも可能だろう。しかし、現世離脱的宗教性および心のコントロール法を説く教団が、従来の教団に比べて「他者不在」に転落する危険性が相対的には高いことも否めないかもしれない。豊かな社会において、現世離脱的宗教性が魅力をもつのは時代の必然である。また、一日に100人に気配りするよりも、100人と接する自分の心のコントロールに集中する方が、現実的であり、家族以外の持続的共同体が減少する現代日本にあって心理統御技法が「癒しを求める人々」を引きつけるのも時代の必然である。「癒しを求める人々」、とりわけ人生経験の浅い若者は現世離脱的宗教性のもとでの「心のコントロール法」が「他者不在」へと転落する危険性があることに十分注意せねばならない。
(2)商業主義の問題性
 これはいわずもがなの問題であろう(島薗・石井編1996)。現代日本では、「教団」という言葉は「人を束縛するもの」「金儲けをするもの」というニュアンスを帯びがちである(「信者と書いて儲かると読む」という言葉もある)。2000年の「法の華三法行事件」などがこうしたイメージをますます強くした。ただ、ここで注意しなければならないことは、「金儲け主義」の教団は新新宗教全体から見れば、ごく一部にすぎないということである。また、マスメディアは悪いことは何もかも「叩きやすい」宗教界のせいにしがちであるが、近年の宗教界のごく一部の儲け主義は、社会全体の儲け主義(資本主義的競争原理の徹底)が宗教界にも浸透してきたものと見るべきであり、外部社会は一部の教団の儲け主義を見てもって他山の石とすべきであろう。
(3)「心の管理化」の可能性
 本章の冒頭で、「癒し」という言葉の近年のマスメディアによる乱用に関して、CDショップにおける「癒し系」というジャンルの定着にふれたが、音楽療法は第2次世界大戦時に大きな発展をとげたそうである。このように、マスメディアに煽られて「癒しを求める人々」が、まさにその行為によって、管理社会に組み込まれている側面もあるのではないか。このことは、「サイコバブル」ともよばれる近年の心理学ブーム全体にある程度までは当てはまるのではないか(日本社会臨床学会編2000)。例えば、2000年に文部科学省は全国の大学に「これからは不登校学生の心のケアをせよ」という通達を出したが、これなどは国家による個人の心の過剰管理という側面もあるのではないだろうか。現在用いられている心理療法の技法の中には、マクロに見れば、20世紀における2度の世界大戦やベトナム戦争と関連して発達したものが少なくないのである。
 このことは、「総力戦体制=システム化社会」における「強制的均質化」の作用と「心理学的人間」の誕生に関係があることを示しているのかもしれない。強制的均質化とは、人間を階級・地縁・血縁から切り離して、総力戦体制の交換可能なアトムにするような作用を指す((山之内(他)1995)。この歴史観では、総力戦の終了に歴史の断絶を見るのではなく、総力戦体制が戦後の民主主義体制と管理社会(システム化社会)を準備したという側面に注意を促すのである。心理学的人間とは、心の問題の解決を宗教ではなく心理学に求める人間像を指す。現代の管理社会を「何も問題はない」と考える人ばかりならいいのだが、それに息苦しさを感じる人もいる以上、「心の管理化」の可能性について問題提起しておきたい。

 このように「癒しを求める人々」をめぐる諸問題を考察してくると、現代の日本社会全体に当てはまる問題が見えてくる。倫理学者の相良亨は、日本人の道徳生活の大きな特徴として、「現実と否定的に関わる超越的な理念や戒律」に従う傾向が弱く、「主観的心情の純粋さ」を重視する傾向が強いことを指摘した。この主観的心情の純粋さは、現在では「誠実」という言葉に代表される(相良1992)。このことは、マクロに見れば、現代の日本人の宗教道徳生活が、シンクレティックにテクノロジーを巧妙に取り入れてさまざまな工夫を凝らすことにたけているようでいて、その反面としては、「現実と否定的に関わる超越的な理念や戒律」による歯止めが弱く、テクノロジーに巻き込まれやすい側面もある、ということである。オウム真理教事件などは、テクノロジーが信仰世界を完全に植民地化した例であろう。後世の歴史家たちは、オウム真理教が他ならぬ日本で発生したことには十分な必然性があった、と結論するのではないだろうか。

<参考文献>
相良亨『相良亨著作集5・日本人論』ぺりかん社、1992年
島薗進オウム真理教の軌跡』岩波ブックレット、1995年
日本社会臨床学会編『カウンセリング・幻想と現実(上・下)』現代書館、2000年
山之内(他)編『総力戦と現代化』柏書房1995年