オウム真理教と「シッダールタ」

現代日本におけるグノーシス主義の潮流

 

 現代日本の若者の心象風景は、軽薄なまでにひたすらに「明るさ」や「ポジティヴ」を追究する動きと、「(愛の)神も仏もあるものか」というグノーシス主義的なニヒリズムに二極分解している。本章で取り扱う、村上春樹の小説・オウム真理教クトゥルフ神話は、明らかに後者のグノーシス主義の系譜に分類されるものである。

 かつてオウム真理教の脱会者の手記集『カナリヤの詩』を読んだとき、ヘルマン・ヘッセが修行者を描いた小説『シッダールタ』に言及している手記の多さに驚いたことがある。ヘッセは、20世紀においてグノーシス主義の系譜に意図的に連なる代表的な作家のひとりである。村上春樹が影響を受けているクトゥルフ神話も、「グノーシス主義実存主義」の系譜に連なるものである。希薄化した人間関係を生きる村上春樹は、入信前のオウム真理教の信者たちと非常に近い生活世界を生きており、それゆえにオウム真理教の病理の核心が根本教義の「聖無頓着」(原始仏教の名を借りたニヒリズム)の教えにあることが見えないのではないか。

 オウム真理教事件の中核には根本教義「聖無頓着」の問題があり、事件の背後には「聖無頓着」の受容を可能にした現代日本の若年高学歴層における人間関係の希薄化の問題がある。そのことを理解していただくために、以下に、筆者がオウム真理教事件のすぐ後に、『新宗教新聞』1997年4月号に発表した文章を転載しておく。

 

オウム真理教ニヒリズム

 

新宗教新聞」1997年4月号のエッセーより再録

 

 松本被告の初公判こそ、犯罪に関係しなかったオウムの一般信者を脱会させる絶好の機会であった。松本被告が頑として自身の松本アイデンティティを否定して、聖無頓着の教えをとうとうと述べた時に、裁判官は一言静かに「松本被告は聖無頓着なのに、どうして自分は松本ではないということにそんなに頓着するのですか」と聞き返すべきではなかったか。

 松本被告のパーソナリティは、従来のイメージでの宗教家というよりも、むしろ「頭の切れる不良少年」に近いように思う。松本被告は「戸籍は忘れた」と述べたが、頭の切れる人間が戸籍を忘れるとは思えず、嘘であろう。本当に「聖無頓着」ならば、自分が松本であるかどうかですら、もはやどうでもいいはずなのだ。

 このように裁判官が一言聞き返せば、松本という名の頭のいい不良少年はおそらく立ち往生したであろうし、一般信者は、目がさめていたかもしれない。そうならなかったのは、私たち宗教研究者の説明不足にも責任がある。しかしそれだけではなく、一般社会が松本被告に対する憎しみにとらわれて目が曇ったということもあるだろう。

 オウム信者の無機的冷静さと非人間的発想の根源には、「他者との共感共苦をやめて心を安定させよ」という「聖無頓着の教え」がある。聖無頓着の教えこそが、この「宗教」の暴力性の根源である。松本被告はこれを原始仏教の精髄と称しているが、これは名前を借りた以外は本来の原始仏教の教えとは何の関係もない。

 オウムの聖無頓着は、松本被告の特異な生い立ちと深く関わっているように思われる。おそらくは、6歳にして両親に捨てられた(と少なくとも思い込んだ)松本被告が自己救済のために編み出した心のコントロール法であろう。両親に対する愛憎を整理できない若者にとって、この教えは絶対の葛藤回避法となる。私の目には、松本被告は両親に捨てられた自分を呪って苦行に打ち込み、殉教者を気取って自己陶酔しながら、内心両親を見下し続けているように見える。

 「向かい合う人の心は鏡なり」とは新宗教でよく用いられる表現である。これは精神分析でいう「否認と投影のメカニズム」つまり自分のもつ暗い衝動を認めないで他者のものとする心ぐせが暴走するのを戒める教えである。オウム事件では、オウム真理教と一般社会の間にこの教えが生かされていなかった。

 こうした教えをもたないオウムは、自分自身の暗い衝動を認めようとせずに、代わりに外部社会を「悪の世界」とみなしていた。逆に一般社会の側でも、特にマスメディアは、オウムに対する憎しみにとらわれる傾向があり、両者の間に憎しみが増幅されていき、悲劇が拡大されていった。

 オウム事件の最大の教訓は、松本被告のように親子関係を整理しきれない、深いレベルであるがままの自分を愛せない人間の愛情は支配でしかなく、自己犠牲もファシズムでしかないということだと思う。そうした直接的には家族関係に起因する「愛情という名の支配」の病理は、オウム真理教だけではなく、日本社会全体に広く浅く見られる病理ではないだろうか。

 オウム事件によって「新宗教はやっぱり怖い」というイメージが拡がり、他の新宗教教団は迷惑したであろう。しかし私が希望したいことは、「向かい合う人の心は鏡なり」という教えにのっとり、そうした広く浅く見られる病理を静かに振り返ることである。「愛情という名の支配」の病理は、あなたの教団にもひそかに広がっているかもしれない。