グノーシス/実存主義/ラヴクラフト

 こうしてわれわれの探求はふたたび人間と自然(フュシス)の二元性へとわれわれを導く。これこそがニヒリズム的状況の形而上学的背景である。しかしグノーシスの二元論と実存主義の二元論のあいだには基本的な差異があることも看過してはならない。グノーシス的人間は、敵意ある、反神的な、したがって反人間的な自然のなかに投げ込まれるが、現代人は無関心な自然のなかに投げ込まれている。後者の場合にのみ、絶対的な真空、真に底無しの深淵がある。グノーシス派は、敵意あるもの、ダイモーン的なものを依然として擬人的に考えている。それは、その異邦性においてさえ親密なものであり、この対比自体が実存に方向づけをあたえるーたしかにそれは否定的な方向づけだが、その背後には否定的超越があってこれを裁可しているし、しかもこの否定性は世界の肯定性のなかに質的対立項をもっている。しかし、現代科学の無関心な自然にはこの敵対的な性質すらも認められず、そこからはいかなる方向づけも導き出すことができない(ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』人文書院、1986年(原著1964年)、p.449)。


ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(1890-1937)の「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」などと呼ばれるSF的なホラー小説に登場する邪神たちは、ハンス・ヨナスの言う実存主義の「無関心な自然」を擬人化したものと見ることもできるでしょう。


 この点に関して率直な態度を執ってみよう。「旧来の実存主義」が固定化して動きがとれなくなった理由の一つは、余りアカデミックな哲学と妥協しようとしたことだった。ヤスパースハイデッガーサルトルのテキストで遭遇する表現の難解さは大部分が、アカデミックな尊敬を得る哲学に欠くことができないと著者が考えている難解さである。
 真実は、実存主義がアカデミックな哲学よりも、SFのほうと多くの共通点をもっているということである(コリン・ウィルソン実存主義を超えて』福村出版、1974年(原著1966年)、p.203)。


村上春樹さんは、カール・グスタフユングと同様、正統派のキリスト教が説く「至高善たる神」の存在は信じることができないのでしょう。クトゥルー神話には、(古代ヘレニズムの宗教である)「グノーシス主義の現代版」、(現代の哲学である)「実存主義のポップ版」としての側面があると思います。私の若いころは、ラヴクラフトはマニアの世界でしたが、今やすっかりポピュラーになったようですね。ファンは、クトゥルー神話を愛読することによって、逆説的に「ニヒリズムの誘惑」を退けているのでしょう。