女子高生と「グノーシス症候群」ー家入レオの音楽ー

http://www.kosmos-lby.com/column02/r04.html より転載


つい先日、サングラハに連載を寄稿中の田辺先生から『グノーシスの神話』(大貫隆訳・著 岩波書店)という面白そうな本が刊行されたというお知らせをいただき、筆者も早速書店で買い求めました。グノーシス主義についてはここで簡単に紹介することはとても無理ですので、興味のある方は同書を入手されることをお薦めしておきます。一口で言えば、「クノーシス主義は古代末期から近代に至るまで、地中海およびヨーロッパ文化の実にさまざまな領域、すなわちユダヤ教キリスト教イスラム教という歴史的世界宗教、神学、哲学、神秘主義思想、科学史などの領域において、表の文化に対する裏の文化として見え隠れしながら、連綿とその影響を及ぼし続けてきた」ものであり、その最大の特徴は「世界を巨大な悪と見て、それを拒否あるいは逃避して生きようとする」ということです。そしてこの姿勢からは「現実世界を人間世界にとって益となる方向へ変革すること」は無意味であるがゆえに、あり得ない選択肢となるということです。


ここからして大変興味深いのは、「グノーシス症候群」と呼ぶべきものがあるということです。で、同書の「結び グノーシス主義と現代」の中の「終りなき日常とグノーシス主義」という一節で、大貫先生は次のように述べています。


世界拒否あるいは逃避という「グノーシス症候群」は、現代日本の社会状況の中では、むしろ「テレクラ売春」、「ブルセラ」、「援助交際」、「オヤジ狩り」をキータームとする女子高生の生態の中に垣間見られる。宮台真司はこの生態を指して、それは「終りなき日常」を生きるための女子高生たちの知恵だと言う。「『終りなき日常』という言葉で私が言いたかったことは、こんなことだ。子供が原っぱで遊び、家電製品もロクに揃っていないような近代過渡期の社会では、『頑張れば自分も家族も社会ももっと豊かになる』という具合に、人々が社会の未来に『輝く希望』を託すのが当たり前。でも社会が成熟してくると、人間も社会もこれから大して変りはしないというイメージになっていく。自分を取り巻くサエない日常が、ひっくり返るなんてことはこれからもありえない。そのことを自分に納得させながら、人々は生きるようになる。そんな『終りなき日常』を自分や他人を傷つけないで生きるには、知恵が必要になる」宮台真司『世紀末の作法)。


大貫先生はさらに、『世紀末精神世界』(WAVE出版)の著者、ユング心理学者入江良平氏の言葉を借りて、そこに見えてくるのは「極度に陰鬱な世界像」であり、「この『輝きを失った混濁した世界』には宇宙的な調和も、未来の希望も、魂の内なる輝きもありません。一切は意味を剥奪され、すべてが淀む灰色の世界。それが『終りなき日常』の原風景なのです」という宮台さんの説明を引用し、さらに次のように述べています。


宮台によれば、性を売りながら女子高生たちはこのような世界を拒んでいるのだと言う。それでは、性を買う「オヤジ」たちはどうなのか。たとえどれほど女子高生たちの目に世界を受容した大人の代表と見えようと、実はそうではないのではないか。増えつづける一方の中高年の自殺は、彼らも世界から逃げようとしていることの証しであろう。この世界拒否と世界逃避にグノーシス主義症候群が顕在化していると述べることは、決して過言ではないであろう。……しかし、「終りなき日常」の原風景はグノーシス主義の半分に過ぎない。グノーシス主義者は、……現実の世界に対する絶対的な違和感の中でこそ、本来の自己がそれを無限に超越する価値であると信じるからである。


グノーシスの『魂の解明』という文書には、地上に落下して汚辱にまみれながらも、自分の神的本質に目覚めて、光の世界の父のもとへ戻ってゆく魂(女性)の姿が描かれているそうです。これに対して大貫先生は、「オヤジをカモり、徹底して戦略的に振る舞う現実の女子高生たちにとって、オヤジという存在は『汚れ』かつ『世界を受容した者』の象徴だ。そのオヤジ相手に売春しまくる彼女たちは『汚れ』てはいても、『世界を受容していない』。その意味でイノセントな存在だ」という宮台さんの言葉を引用しつつも、自分は無垢で、すべて世界が悪いのだというのは、高校生の実存理解としては仕方がないかもしれないが、この「新しいイノセンス」は余りに楽天主義だと評しています。(なお、宮台真司氏の言説とそれに対する批判に関しては、諸富祥彦編著/トランスパーソナルな仲間たち著『〈宮台真司〉をぶっとばせ!--“終わらない日常”批判』(コスモス・ライブラリー 1999年)参照)


*現在、現役女子高生の新人シンガソングライターとして注目されており、2012年度レコード大賞の新人賞候補にもノミネートされている家入レオの音楽、特にデビュー・シングル「サブリナ」とセカンド・シングル「シャイン」は、まさに「地上に落下して汚辱にまみれながらも、自分の神的本質に目覚めて、光の世界の父のもとへ戻ってゆく魂(女性)の姿」を歌っており、現代日本の「グノーシス症候群」の現れとみることができます。