「人間失格」または日本的グノーシス主義(2)

  自分は神にさえおびえていました。神の愛は信じられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の鞭を受けるために、うなだれて審 判の台に向かうことのような気がしているのでした。地獄は信じられても、天国の存在は、どうしても信じられなかったのです(太宰治人間失格」『斜陽・人間失格・桜桃・走れメロス外七編』文春文庫、2000年(初出1948年);p.258)。

ー「太宰は、聖書をつねに律法的に受けとろうとした。「福音」(熊田註;原文強調体)をすら、律法的に聞こうとしたのである」
 聖書を律法的に受けとろうとしればするほど、私たちは、それを行いえない自己の弱さとみじめさに目ざめざるをえないであろう。しかしその場合、そのみじめさは、ただみじめさで終わるのではなくて、律法の前で正しき者でありえない自己として自らが自覚されてくる。それが罪への目ざめなのである。太宰はそういう苦しみを自らの中に苦悩として深めた人であった(佐古純一郎「太宰治におけるデカダンスの倫理」)。

ー(神の罰は信じられても、神の愛は信じられない、すなわち「神の義」を信じられない・・・・・・)、そこに彼の限界があった。ただ彼は、自己のその限界を完全に「あらわし切って」(熊田註;原文強調体)死んだのである(菊田義孝「太宰治と罪の問題」)。

ー「自分の考えは、今フランスで言われている実存主義に近い」「文学者が追求すべきものはセントだ」(「インタビュー 小野才八郎」『文芸別冊 太宰治河出書房新社、2009年;p.53)

 やはり、近代日本文学のカノンである太宰治の「人間失格」(1948)は、日本的なグノーシス主義の世界を描いた小説と言えそうです。