オウム真理教/フェミニズム/村上春樹『1Q84』

 1995年のオウム真理教による無差別テロ事件に際して、女性のバックラッシュ・ライターである与那原恵さんが「フェミニズムは無力だった」と、あたかもフェミニズムに救われなかった高学歴女性がオウム真理教に多数入信したかのような言説を流布させました。事実の裏付けはなかったのですが、寡聞にして、フェミニズム側からの本格的な反論は読んだ記憶がありません。
 大ベストセラー『1Q84(1-3)』では、「フェミニスト的偽装」(ササキバラ・ゴウ)に長けた作家の村上春樹さんが、いつもの通り女性の登場人物たちを「聖母か娼婦か」(田中美津)という古典近代的な女性差別の図式によって分断し、さらに『ノルウェイの森』以来の「魔性のレズビアン」(渡辺みえこ)という第3の差別的カテゴリーも設定しています。そして、オウム真理教をモデルにしたとおぼしきカルト教団をテーマに選んでいます。私は、村上春樹さんのような(あるいはマスメディア御用達の精神科医である斎藤学さんや斎藤環さんのような)「フェミニズムに理解があるつもりでいるオヤジ」は、「自分がジェンダー保守であることにちゃんと自覚があり、そのことに後ろめたさを感じているオヤジ」よりもかえってタチが悪いと思っています。
 私も宗教学者の端くれとして、オウム真理教事件に際しては解説を試みたのですが、事件当時の集団ヒステリーのような社会状況の中では、ほとんど無力でした。当時の私の解説を再録しておきます。オウム真理教に対するアカデミックな考察としては、宗教社会学の会(編)『新世紀の宗教ー聖なるものの現代的諸相』(創元社、2002年)に所収された拙稿「癒しを求める人々」をご笑覧いただければ幸いです。村上春樹さんが、『アンダーグラウンド』の売り上げで稼いだ膨大な印税のほんの一部でも、地下鉄サリン事件の被害者に寄付したという話は聞きません。
 エゲツナイ商売をする偽善者と評されても仕方ないのではないでしょうか?


「鏡としてのオウム真理教
新宗教新聞』1997年4月号のエッセーより再録


 松本被告の初公判こそ、犯罪に関係しなかったオウムの一般信者を脱会させる絶好の機会であった。松本被告が頑として自身の松本アイデンティティを否定して、聖無頓着の教えをとうとうと述べた時に、裁判官は一言静かに「松本被告は聖無頓着なのに、どうして自分は松本ではないということにそんなに頓着するのですか」と聞き返すべきではなかったか。
 松本被告のパーソナリティは、従来のイメージでの宗教家というよりも、むしろ「頭の切れる不良少年」に近いように思う。松本被告は「戸籍は忘れた」と述べたが、頭の切れる人間が戸籍を忘れるとは思えず、嘘であろう。本当に「聖無頓着」ならば、自分が松本であるかどうかですら、もはやどうでもいいはずなのだ。
 このように裁判官が一言聞き返せば、松本という名の頭のいい不良少年はおそらく立ち往生したであろうし、一般信者は、目がさめていたかもしれない。そうならなかったのは、私たち宗教研究者の説明不足にも責任がある。しかしそれだけではなく、一般社会が松本被告に対する憎しみにとらわれて目が曇ったということもあるだろう。
 オウム信者の無機的冷静さと非人間的発想の根源には、「他者との共感共苦をやめて心を安定させよ」という「聖無頓着の教え」がある。聖無頓着の教えこそが、この「宗教」の暴力性の根源である。松本被告はこれを原始仏教の精髄と称しているが、これは名前を借りた以外は本来の原始仏教の教えとは何の関係もない。
 オウムの聖無頓着は、松本被告の特異な生い立ちと深く関わっているように思われる。おそらくは、6歳にして両親に捨てられた(と少なくとも思い込んだ)松本被告が自己救済のために編み出した心のコントロール法であろう。両親に対する愛憎を整理できない若者にとって、この教えは絶対の葛藤回避法となる。私の目には、松本被告は両親に捨てられた自分を呪って苦行に打ち込み、殉教者を気取って自己陶酔しながら、内心両親を見下し続けているように見える。
 「向かい合う人の心は鏡なり」とは新宗教でよく用いられる表現である。これは精神分析でいう「否認と投影のメカニズム」つまり自分のもつ暗い衝動を認めないで他者のものとする心ぐせが暴走するのを戒める教えである。オウム事件では、オウム真理教と一般社会の間にこの教えが生かされていなかった。
 こうした教えをもたないオウムは、自分自身の暗い衝動を認めようとせずに、代わりに外部社会を「悪の世界」とみなしていた。逆に一般社会の側でも、特にマスメディアは、オウムに対する憎しみにとらわれる傾向があり、両者の間に憎しみが増幅されていき、悲劇が拡大されていった。
 オウム事件の最大の教訓は、松本被告のように親子関係を整理しきれない、深いレベルであるがままの自分を愛せない人間の愛情は支配でしかなく、自己犠牲もファシズムでしかないということだと思う。そうした直接的には家族関係に起因する「愛情という名の支配」の病理は、オウム真理教だけではなく、日本社会全体に広く浅く見られる病理ではないだろうか。
 オウム事件によって「新宗教はやっぱり怖い」というイメージが拡がり、他の新宗教教団は迷惑したであろう。しかし私が希望したいことは、「向かい合う人の心は鏡なり」という教えにのっとり、そうした広く浅く見られる病理を静かに振り返ることである。「愛情という名の支配」の病理は、あなたの教団にもひそかに広がっているかもしれない。