村上春樹さんと教団宗教

 村上春樹さんの父親は、高校教師を辞めた後、浄土宗の僧侶をしていたそうです。少なくとも村上春樹さんの作品中では、男性主人公は父親との関係に葛藤を抱えていることが多いです。村上春樹さんの教団宗教に対する、全否定はできないというアンビバレンスは、おそらく父親に対するアンビバレンスと関係しているのでしょう。


(河合)天才的な人は最初からこんな馬鹿なことはしないです。たとえば親鸞なんか「弟子はとらない」と言っています。しかし言っているにもかかわらず、あとになってあれだけすごい教団ができてしまった。だからもう、これからは宗教性の追求というのは個人でやるより仕方ないんじゃないかと僕は思てますけれどね。
(村上)異議を唱えるようですが、個人でそれができるほど強い精神を持っている人は、多くの場合宗教なんかにいかないんじゃないでしょうか。宗教を求める世間の大多数の人は、個人でやっていくことはむずかしいだろうと僕は思うんですが(村上春樹『約束された場所でーunderground2』文春文庫、2001年(初出1998年);pp.317-318)。


 『1Q84』に出てくる傷つけられた人々というのは、極端に拡大され、誇張されたものではあるけれども、僕自身の投影でもあります(『考える人』、新潮社、2010年夏号、p.37)。


 このように教団宗教を全否定はできないものの、オウム真理教事件における教団の暴力性はもちろん認めることはできない。しかし、自分も両親との関係における葛藤を整理できないので、オウム真理教の暴力性の根源が、根本教義の「聖無頓着」という原始仏教の名を借りたニヒリズム思想にあることが理解できない。そこで村上春樹さんは、教団宗教を操る「リトル・ピープル」というラブクラフト的な邪神の存在を想定するようになったのでしょう。


ー悪というものはときによると、こちらが気づいているかどうかは別として、道具のように手のなかにある。そのつもりになれば、苦もなく脇へどけることができる(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、p.190)。