「悪」を抱えて生きる?

村上春樹『約束された場所でーunderground2』文藝春秋、2001年
 村上さんは、本書後半の河合隼雄氏との対談内で 『ふたつの考え方があると思う』、しかしそのどちらかだとは断言できないとしています。
 『ひとつは会社というのはこっち側のシステムであり、そこには一種宗教的な色彩さえある。こういう言い方をすると問題があるかもしれないけれど、そこにはある意味ではオウム真理教のシステムと通底している部分があるかもしれない。実際に被害者のサラリーマンの中には、自分だって同じ立場だったら命令を実行していたかもしれないと告白した人も何人かいました。
 もうひとつは「いや、それはぜんぜん違うものだ。こちらのシステムはあっちのシステムとは異質のものだ、一方が他方を包含して、その間違った部分を癒していけるんだ」という考え方です。僕はその二つのどっちだとも、まだ今のところ簡単には言えません。』(村上春樹『約束された場所でーunderground2』文春文庫、2001年(初出1998年);pp.272-273)
 村上さんは、その問いを追求する前に「悪」についてある程度定義がなされていないと進まないと言っていて、「悪」に関する彼と河合氏とのやり取りが始まっています。
 「悪」の徹底的排除ではなく「悪」と「善」のバランスを上手く保てることが、個人レベルでの「闇」や「悪」に完全に自分を委ねない染まらないことであり、全体レベルでは、片方による支配を許さない共存であると私は思うんだ。両極端のものが補完しあって存在しているように、「悪」と「善」の両方を誰しも持ちあわせている(個人単位だけでなく集団も)。「悪」のないところに「善」はなく、何が「悪」で何が「善」であるかという基準や価値判断も時や場所によって異なる。立場は固定されたものではなく逆転・入れ替わることもあり、どちらかの消滅や迫害は解決策にならない気がする、としています。


*私は、はっきりと「こちらのシステムはあっちのシステムとは異質のものだ、一方が他方を包含して、その間違った部分を癒していけるんだ」という考え方の方が正しい、という立場です。村上さんは、自分の『内なる闇』、「ある意味ではオウム真理教のシステムと通底している部分」を直視できないので、曖昧な立場になるのでしょう。ちなみに、村上さんの父親は、高校教師を経て、仏教の僧侶をしていたそうです。