村上春樹さんの女性嫌悪(小括)

 現在放映中のヘアカラー(ダリヤ社)のテレビCMにおけるキャッチフレーズは、「パパである前に男であれ!」です。しかし、現代日本では「ママである前に女であれ!」とはまだおおっぴらには言えないと思います。
 もはや社会現象と化した村上春樹さんの大ベストセラー『1Q84』では、男性主人公「天吾」の母親は、夫がいながら赤ん坊の天吾を連れて別の男と駆け落ちして、眠っている天吾の傍らでその男とセックスしていたが、その男に絞め殺されてしまったと設定されています。「母である前に女であろうとした」女性を簡単に殺してしまうところに、「フェミニズムに理解がある」つもりでいる村上春樹さんの「無意識の女性嫌悪」を見ることができると思います。
 『ノルウェーの森』における作者の無意識の女性嫌悪については、上野・富岡・小倉『男流文学論』(筑摩書房、初出1992年)にも指摘があります。渡辺みえこ『語り得ぬもの:村上春樹の女性表象』(御茶の水書房、2009年)は、この小説がレズビアンの少女を怪物のように描いていることを問題としています。小森陽一村上春樹論:「海辺のカフカ」を精読する』(平凡社新書、2006年)も、村上春樹の作品における女性嫌悪の問題をクローズアップしています。もし『1Q84』の私が指摘した箇所に女性嫌悪を感じない人がいれば、それはその人が「女性=母性」という近代的なジェンダー・バイアスを内面化しているからでしょう。
 村上春樹さんの女性観を身も蓋もなく要約すれば、「若い女性の肉体に、中年女性の気配りを兼ね備えている女性がいいなあ。レズビアン?俺が男の味を教えてやるぜ。それでもわからなければ、排除してやる。」ということではないでしょうか。私は、村上春樹さんのような(あるいはマスメディア御用達の精神科医である斎藤学さんや斎藤環さんのような)「フェミニズムに理解があるつもりでいるオヤジ」は、「自分がジェンダー保守であることにちゃんと自覚があり、そのことに後ろめたさを感じているオヤジ」よりもかえってタチが悪いと思っています。