宗教界・宗教学・精神医療のマッチョな共犯関係

 DV(配偶者または恋人関係における身体的・精神的虐待、被害者の約90%が女性)の問題の解決は、まだまだ道遠しでしょう。「心の問題」を扱う宗教界・宗教学・精神医療は、男性中心主義という点で共犯関係を結んでいるのが現状です。
 
 
1.宗教界の男性中心主義について 
天理教の機関誌「みちのとも」2008年10月号に、次のような記事が掲載されています。
 夫の酒乱と暴力に苦しむ女性患者に、心療内科医でもある男性信者が、「夫に感謝していますか?」と指導し、患者が「夫にお金をもらっている」ことを思い起こして感謝したら、夫が酒量をコントロールできるようになり、夫婦関係が改善されたという「おたすけ(?)」の話が掲載されていました。これが、DVに苦しむ女性に対する日本の宗教界の信仰指導の現実でしょう。
 現在の天理教教団は、DVについては、「被害者を絶対に責めないように細心の注意を払いながら夫婦別々にカウンセリングを行い、うまくいかなければ親神にお詫びして離婚するように」という指導方針を表明しています(天理やまと文化会議編「道と社会ー現代“事情”を思案する」天理教道友社、2004年)。しかし、DV夫は加害者意識など普通もっておらず、自分も信者でない限りカウンセリングに応じることは、稀でしょう。また、1.自活していくだけの経済力がない、2.結婚制度からはずれることが恐い、という理由から、被害者女性にとっても、離婚はそう簡単ではないでしょう。
 天理教の東京布教の道筋をつけた東本大教会初代の女性会長・中川よし(明治2年ー大正5年)の場合、自分がひたすら信心に打ち込むことによって、道楽者の上にバタラーだった夫を感化して、最後は夫も布教師にしています。天理教の女性教祖・中山みきと夫・善兵衛の関係も、そういう「妻による感化型」の関係だったのではないか、と推測しています。「妻による感化型」が理想とされてはいるが、現実にはなかなかそこまではいかないのでしょう。
 この男性信者=心療内科医は、「酒乱のDV夫/心身不調で愚痴をこぼす妻」の関係について、本来なら「喧嘩両成敗」にするべきところだが、診療所に来たのは女性患者の方だけなので、「ご主人に感謝していますか?」と働きかけ、その結果夫婦関係が改善された、としています。「ご主人」という言葉と、「喧嘩両成敗」という価値判断の下し方は、「加害/被害の関係において、中立は、強者の味方をするだけである」というフェミニスト・カウンセラー信田さよ子さんの言葉を思い起こさせます。
 
2.宗教学の男性中心主義について

 東京大学島薗進氏(現・日本宗教学会会長)は、天理教の女性教祖・中山みき(1798-1887)が、1866年に三女はるが懐妊したとき、「今度、おはるには前川の父の魂を流し込んだ。しんばしら(熊田註;真柱=教主)の真之亮やで」と発言したことを根拠として、「中山みきは生涯強い父の面影を追っていた。」と論じています(島薗進「神がかりから救けまで」『駒沢大学仏教学部論集』8号、1977年・この論文は、日本宗教学会賞を受賞しています)。しかし、これは論旨の飛躍でしょう。1.前川の父が「強い父」であった、2.みきが前川の父を尊敬していた、という実証的根拠がありません。島薗氏は、現在でも「みきは(男女平等の)庶民家族と家父長制の間で揺れていた」という見解をとっています(私信による)。しかし、家族倫理という基本的なことで揺れている教祖に信者がついていったとは思えません。「天理教教祖は、確かに『雄松雌松にへだてなし』と男女平等を主張したが、家父長制を全否定していたわけではなかった。」というのが現在の天理教学の主流派の見解だと思います。
 私は、「みきは家父長制に関しては、確かに革命主義者ではなかったが、改良主義者だった。」と見ています。みきが家父長制に関して改良主義者であったことがよく表れているのが、「稿本・天理教教祖伝逸話編」に所収されている「逸話五七 男の子は父親付きで」(pp98-100)だと思います。この逸話で、性器を煩った男の子を教祖に会わせると、教祖は、「家のしん、しんの所に悩み。心次第で結構になるで。」と発言しています。そして、なかなか治らないと、信者に(熊田註;教祖は)「『男の子は、父親付きで。』とお聞かせくださる。」というアドヴァイズを受けて、父親が連れてきたら、たちまち全快した、という逸話です。この逸話から、1.みきは、男性が家の「しん」であることは認めていた、2.しかし同時に、その「しん」を変えなければならないと考えていた、ということがわかります。おそらく、この逸話「男の子は父親付きで」の背景には、夫・善兵衛が変わるまでは、長男・修司は変わらなかった、という教祖自身の経験があったと私は推測しています。
 天理教の機関誌「みちのとも」2008年6月号は、「いまに生きる先人のことば」というコーナーで、「男性は生来理性的、女性は生来感情的であるから、相補って布教すべし」という趣旨の大正8年の文章を再録しています。みきは、こんなことは言っていませんでした。現在の天理教教団のこうしたジェンダー保守の体質と、島薗氏の天理教教祖論とは、親和性が高いと言わざるをえません。日本の宗教学と宗教界は、男性中心主義という点で共犯関係にあるようです。
 
3.精神医療の男性中心主義について

 親フェミニズムを標榜する男性知識人が、覇権的男性性(「男の中の男」のイメージ)とグルになる男性性から完全には脱却できないでいる一例として、マスメディアで高名な精神科医の言説を取り上げておきます。精神科医斎藤学氏は、日本にアメリカからアディクション・アプローチを本格的に導入した人物のひとりであり、一般読者向けの書物を量産して、日本のマスメディアでは大きな影響力をもっています。斉藤学氏は、フェミニズムの主張を理解しようと努めており、その姿勢は評価できます。しかし、斎藤学氏の男性性についての発言を読むと、この人の「男らしさという病」についての理解の底の浅さが窺われます。「どこかで他人の役にたっていないと、特に異性の役にたっていないのが男という存在だと割り切ると「男らしさ」ということがすこしわかる気がする。しかし、そう考えると解せない幾つかのことがある。なぜ「男」は本来守るべき異性を威圧したり暴力で支配したがるのか。おそらく男がその中で暮らすシステムの問題だと思う。社会システム、職能システム、家族システム。ヒトの男という種はシステムの維持に貢献するという固有の傾向をもつのではないか。十五万年の歴史の中で、そのような傾向を強化されてきたのではないかと思うのだ。システムの維持のためには自己犠牲も厭わない、ついでにオマエ(つまり女)もそのようにしろ、というところから男にまつわる諸悪が始まるような気がする。」(斎藤学「男の勘違い」毎日新聞社、2004年)
 一般に、「男というものは」で始まる「遍在する男性性」の存在を仮定する言説は、ジェンダーに関する社会構築主義ジェンダーは社会や文化によって構築されたものとする理論)の観点からすればすべて間違いであり、単にその発言者自身の男性観を表現しているだけです。男性というだけでみんな同じように感じるということはないのです。上記の文章には、斎藤学氏自身の男性観を表している側面があるのではないでしょうか。「ヒトの男という種はシステムの維持に貢献するという固有の傾向をもつ」という発言は、斉藤学氏自身が、私が「男らしさという病?」で批判した、近現代日本の「覇権的男性性」である「忠臣蔵プロジェクトX的男性性」(「存在証明」のために一致団結してすべてを犠牲にする「集団主義」の世界)に自己同一化していることを表現している側面があるのではないでしょうかか。この点は、おそらく斎藤学氏が属する世代の男性によるフェミニズム理解の限界であり、この点では斎藤学氏を非難する気はありません。しかし、ドメスティック・ヴァイオレンスに関して、「なぜ『男』は本来守るべき異性を威圧したり暴力で支配したがるのか。おそらく男がその中で暮らすシステムの問題だと思う。」と認識していることに対しては、厳しく非難せざるをえません。「システム」という定義していない概念にドメスティック・ヴァイオレンスの「責任」をすべて押しつけて、加害者男性を免責している発言だからです。極端な言い方をすれば、「妻子に暴力を振るうボクちゃんは悪くない、みんな世の中が悪いんだ」と宣言しているようなものではないでしょうか。こうした問題は、斎藤学氏の個人的な資質の問題というよりも、斎藤氏が属する日本の精神医療の業界全体が強固なジェンダー保守の体質を維持していることからくる構造的な問題なのではないでしょうか。

 宗教界も、宗教学も、(精神)医療も、男性優位の根強い業界で、ジェンダー(性をめぐる社会的文化的関係)については、一般社会よりも保守的です。「心の問題」を扱う業界の男性中心主義は、まだどうしようもなく強固です。「DV加害者男性が変われる日」は、まだまだ遠そうです。