天理教の男性カリスマの薄化粧をめぐって

愛知学院大学人間文化研究所所報46号原稿(2020年9月刊行予定)

 

<題名>「天理教の男性カリスマの薄化粧をめぐって」

<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)

 

 この小論では、天理教史上有数の大カリスマであった男性、関根豊松(1881-1969)が薄化粧していたことの意味を考えてみたい。

 関根豊松は、天理教愛町分教会創始者である。天理教では、傘下に50以上の教会をもち、本部に希望した分教会だけが大教会と認められる。愛町分教会は規模からすれば他の多くの大教会をはるかにしのぐのであるが、関根豊松が大教会となることを希望しなかったので、名称は分教会である。その規模はとても大きく、天理教の教団内の独立教団と言ってもいいくらいである。関根豊松には分派の意志は全くなかったが、もし分派していれば、天理教有数の大分派教団になっていただろう。

 関根豊松は、病気なおしの霊能をもっていたとされている。記録は、関根の病気なおしの能力について、次のように伝えている。

 

天理教の救済法には大きく分けて二通りある。ひとつは中山みきの教理を順々と説き、相手が納得することによって助かるというもの。もう一つは相手がその場では半信半疑か、あるいはすぐに理解できなくても霊能で有無をいわさず治してしまうというものである。天理教の主流は前者の方法がほとんどである。いや、現場ではそれがすべてと言っても過言ではない。前者は本人に霊能がなくても相手が話を納得すればそれだけで多少なりとも霊験があらわれるとされているから、基本的には誰でもできるわけであるが、それだけにそれなりの徳と真実がなければ効果は薄いともいわれる。

一方、後者は誰にでもできると言うものではなく、中山みきの霊能を自分のものとして体得していなければどうにもならない。関根豊松はそんな極めて稀な後者の代表例であった(豊嶋泰國『天理の霊能者』インフォメーション出版局、1999年、p180)。


 前者と後者は別種のものではなく、後者は前者の極端な形であろう。近代医学でいうプラシーボ(偽薬)効果は、治療者のカリスマ性に左右される。関根豊松は、それだけの大カリスマだったということだろう。では、関根豊松のカリスマ性は、どのようにして確立されたのだろうか。関根豊松は、その点について以下のように説明していた。

 

関根は生前、教祖の雛型の道を踏めば誰でも自分と同じように奇跡的な徳の力をいただくことができると教え諭していた。

「教祖の雛型を踏まずに、教祖同様の不思議な奇跡をみせていただく道理はありますまい。この教会は皆さんが助かってくださるので、人々は不思議と申されますが、不思議とおっしゃる方が不思議ですよ。私たちは教祖の道を継ぐ弟子です。弟子は、教祖のなさったことを真似たらよいのです。教祖の雛型はわかるものではなく、踏むべきものです。私は教祖の雛型を踏ませていただこうと、日夜努力しました。その結果がいつの間にか今日の姿になっただけですよ」(『天理の霊能者』、p193)


 中山みきの教祖「雛型の道」を日夜努力して「踏む」ことによって「徳の力」が身につく、と説明していたのである。その関根豊松は、薄化粧をしていた。記録には、次のようにある。

 

色白で華奢な体つきのせいか、普段の物腰は女性的で、薄化粧することもしばしばであった。髪は少々薄かったが、頭にはヘアー・トニックをつけ、櫛で髪をきちんと溶かし、洗顔の後、化粧水を肌にぬり、眉毛をペンシルで書くのである。着物を着る時も自分で下着からきちんと着こなした。若い頃は日舞を習っていたこともあり、踊りが大好きで、興が乗ると、皆の前で踊りを披露することもあった。「坂東豊」という坂東流の名前も持っていた。このように関根には女性的な要素が多分にあった点にも注目したい(『天理の霊能者』、p182)。

 

 豊嶋泰國は、関根豊松のこのような「女性的」(と豊嶋泰國が評する)側面について、近代日本の新宗教における「両性具有」の伝統と関連付けて説明している。中山みきの怪力、大本教祖・出口王仁三郎の女装、天照皇大神宮教の教祖・北村さよの男装といった系譜に連なると見るのである。しかし、私は賛成しない。ジェンダーは分類の原理であり、一人の人間が二つのジェンダーを同時に生きることは定義上ありえない。「両性具有」の人間は存在しない。関根豊松は、あくまで「薄化粧している男性」だったのだと思う。

 21世紀初頭の現代日本でこそ、若い世代を中心に、薄化粧している男性は珍しくない。スキンケアしている男性も、眉毛の手入れをしている男性も、ざらにいる。江戸時代にも、少なくとも江戸では、薄化粧している男性は珍しくなかった。しかし、関根豊松が活躍した20世紀前半には、薄化粧している男性は珍しかっただろう。では、関根豊松はなぜ薄化粧していたのだろうか。それは、教祖「雛型の道」を「踏む」ための努力の一環だったのだろう。天理教教祖・中山みき(1798-1887)も、少なくとも老境に達して宗教者として「道」を説くようになってからは、いつもきちんとした服装をしていた。記録には、次のようにある。

 

教祖(おやさま)は、中肉中背で、やや上背がお有りになり、いつも端正な姿勢で、すらりとしたお姿に拝せられた。お顔は幾分面長で、色は白く血色も良く、鼻筋が通ってお口は小さく、誠に気高く優しく、常ににこやかな中にも、神々しく気品のある面差であられた。

お髪は、歳を召されると共に次第に白髪を混え、後には全く雪のように真っ白であられたが、いつもきちんと梳って茶筅に結うておられ、乱れ毛や後れ毛など少しも見受けられず、常に、赤衣に赤い帯、赤い足袋を召され、赤いものずくめの服装であられた(『稿本 天理教教祖伝』天理教道友社、1976年、pp.165-166)。

 

 このようにきちんとした装いをしていた女性教祖の「雛型の道」を「踏む」ことに徹底すると、男性でも薄化粧くらいはしなければならないのだろう。「装い」には、「他者の視線を飾る行為」としての側面がある。他者に不快感を与えない装いは、宗教者にとっても重要なのであろう。

 21世紀に入り、女性の地位は昔よりは向上し、社会は男女平等に近づいた。それにつれて、男性も以前より身だしなみに気を配るようになった。「草食系男子」とはもともと若い男性に対する褒め言葉として考案された言葉であったが、今では「覇気がない」という若者バッシングの言葉として用いられることが多くなっている。草食系とも称される現代日本の若い男性は、身だしなみには年輩者よりも気を配る。男性向け美容品の業界は、どんどん成長している。年配の男性の中には、若い男性のこういう傾向を「女々しい」として快く思わない人もいるようである。しかし、関根豊松の例を見れば、身だしなみに気を配る若い男性は、年配の男性よりも教祖の「雛型の道」に近いのではないだろうか。

 現代の天理教も、本部に全国の男性の大教会長を集めて、「男の身だしなみ」講習会を行えば、「おたすけ」の成功率が上がるのではあるまいか。

 

<参考文献>

『稿本 天理教教祖伝』天理教道友社、1976年

豊嶋泰國『天理の霊能者』インフォメーション出版局、1999年