W・ジェィムズの告解論

アングロ・サクソン人種の教団において告解の習慣が完全に廃れてしまったのは、少し理解しがたいことである。(中略)たとえ告解を聴く耳が聴くだけの価値のない耳であったとしても、もっと多くの人々が自分の秘密の殻を開いて、膿のたまった腫瘍を切開して楽になるようにすべきではなかったか、と人々は考えるに違いない。カトリック教会は、明らかに功利的な理由から、一人の司祭への耳語的な告解に代えて、いっそう徹底した公の告解を採用した。私たち英語を話すプロテスタントは、私たちの性質が一般に自力本願的であり、非社交的であるところから、私たちの秘密を神だけに打ち明ければ十分だと思っているようである(W・ジェィムズ『宗教的経験の諸相(下)』岩波文庫、1969年(原著1901-1902年)、pp.305-306)。


*W・ジェィムズの告解論。現代日本の仏教界における「傾聴」ボランティアやアルコホリクス・アノニマス(AA)などの自助グループにおける体験談活動、天理教における「聴きだすけ」を考える上で示唆的です。