「聴きだすけ」ということ

愛知学院大学人間文化研究所所報』37号原稿(2011年9月刊行)


<題名>「聴きだすけ」ということ
<著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授)


 宗教生活において、説法や体験談活動のような「語る」という行為は確かに重要だが、「聴く」という行為の重要性は、宗教学では従来あまり注目されてこなかった。日本の新宗教である天理教には、「聴きだすけ」という言葉がある。


 先輩布教者の経験から生まれた言葉に「聴きだすけ」というものがある。徹底して聴き、心の痛みを共感する中から事態が見えてくるのである。相手も思いの丈を話すことで、心の重荷を幾分か降ろせる場合もある。
 そして事態が見えてきたら、次の段階として、目の前の現実的問題に対処する。その際、必要に応じて専門家や専門機関の活用を検討する(天理教やまと文化会議(編)『道と社会−現代“事情”を思案する−』天理教道友社、2004年、p56)。


 次に転載するのは、インターネット上の「Yahoo知恵袋」の記事である。この回答者は、おそらく天理教の信者だろう。


<よく、無駄な人間なんていないと聞きますが??>
<質問者>
よく、無駄な人間なんていないと聞きますが??


現在の私は、何でも悪い方向にしか物事が考えられなくなってしまいました。
マイナス思考の固まりのような人間です。
周りからはプラス思考になれと、繰り返し言われ続けています。
でも、どうしようもなく弱い人間で、薬に頼って何とか生きています。
よく、無駄な人間なんていないと聞きますが
自分みたいな弱い人間はそこから外れていると思います。
どう生きたらプラス思考になれるのでしょうか?
毎日が無気力で目的も目標もなくしてしまいました。


<回答者>
 強くプラス思考で生きるにはまず、「自分は生きている」という考えから「自分は生かされている」という考えに改める事が大事です。自分が今、生きていることは決して当たり前な事ではなく、神様のご守護によって生かされているんだ。だから生きることは決して当たり前な事ではないんだ。と常に心においてみましょう。すると自分の命の尊さ、息をして、物が見れて、聞けて、触れて・・・等ということがどれだけ有難いか、ということが分かるようになってきます。すると自然と前を向いて、気力を持って生活できるようになるはずです。


 また、もう一つ大事な事は、神様は、
「人をたすけたら わが身たすかる」
と仰っています。あなたのように自分はマイナス思考の固まりのような人間だと仰る方は、この「人だすけ」を是非実践してみてください。「人だすけ」と言っても、何も大げさな事をする必要は無く、あなたの周りの、様々な悩み事や苦しみを持っておられる方の傍へ行き、話を聞かせていただくだけでいいんです。悩み苦しむ人は、少しでも話しをして、聞いてもらうだけで随分と心が救われるようです。それをあなたが身近な人に対して、少しでも実践できれば、あなたは立派な「人だすけ」をしたことになります。
地道に腐らずに自分の事は置いておいて「人だすけ」を実践することによって、知らず知らずの間に、「人だすけ」があなたの喜びとなり、目的、目標となってあなた自身の生きる力になります。「人だすけ」が自分の生きる力に、活力になった時、あなたはもうマイナス思考の人間なんかではないです。そして結果的にそれが、あなたのたすかっていく道に繋がっていくのです。
自分をマイナス思考だと自覚しているあなたが「人だすけ」に歩いて、あなたと同じような境遇の人の悩みを聞き、苦しみを聞くことで、どれだけその悩み苦しむ方々の心が救われるか。それはつまりあなたのマイナス思考が「人だすけ」に役立ち活きるようになっていくということです。
悩み苦しむ方の傍へ自分から歩み寄って「人だすけ」に励む生き方が、あなたをマイナス思考の人間から、プラス思考の人間に変えられる一番の近道です。あなたのマイナス思考さを武器に、自信を持って人に接すればあなたは変わります。必ず変われます。自分が変わる鍵は、自分自身が持っています。大丈夫!是非ガンバッテ!!(Yahoo知恵袋」)


 次に、天理教ではなく既成仏教(曹洞宗)の僧侶が、信者の話を「聴く」という行為を自己分析した文章を紹介する。


寺で八時間、こころに積もったものを語りつづけた女性に聞かれたことがある。
「わたしは全部、思いをはき出しました。それを受け取ってくれたんですね」
「はい、受け取りましたよ」
「住職さん、苦しくないですか?」
「それは安心してください。今度は仏様に吸いあげてもらいますから」
篠原さん(熊田註;曹洞宗の僧侶)は、実際苦しくなると、お経を読むか坐禅を組む。
「そこは、宗教者のありがたいところです。仏というものは非常に身近で、私は具体的なイメージで考えています。からだはちょっとつかれることはあっても、精神的には大丈夫なんですよ」
そういって、篠原さんはにっこり笑った(磯村健太郎『ルポ−仏教、貧困・自殺に挑むー』岩波書店、2011年、p.126)。


 そもそも、ケアの実践とは本来「受動的なもの」なのかもしれない。精神科医中井久夫も、『最終講義−分裂病私見−』(みすず書房、1998年)において、「正しくは『治す』ではなくて『治ってもらう』」でありましょう。『治す』にはどこかに医者のおごりを感じます」(p.84)とし、また『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997年)では「医者は治療の媒介者」にすぎないという意味のことを言っていた。こういう考え方には、中井が宗教都市である天理市に生まれたことも関係しているだろう。


 哲学者の鷲田清一は、「聴く」ことにおいてはいわば「アース」が必要だと述べている。


(前略)聴くことはかならずしもすべてのことばをきちんと受けとめ、こころに蓄えるということではない。あまりにもきちんと聴き、一言一句に対応されると、かえって胸が詰まってしまうときがある。ある研修会で精神科の医師からうかがったことだが、ことばを受けとめるといっても、そこにはつねにアースが必要だというのだ。じぶんがきちんと受けとめたら、じぶんのほうがもたない。それにがしっと受けとめると、それが反射して相手に悪影響を与えることもある、と(鷲田清一『「聴く」ことの力−臨床哲学試論−』阪急コミュニケーションズ、1999年、p76)。


 宗教の現場では、神仏のような超越者が、鷲田さんのいう「聴く」ことにおける「アース」の役割を果たしているのだろう。
 鷲田清一は、「聴く」ことと「祈る」ことの関係について、<祈りとしての聴き取り>という概念を提出し、それを次のように説明している。


 ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳を俟(ま)ってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現われ出てくるような《聴くことの力》、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ(同上、p165)。


このように、宗教生活においては「語る」ことだけではなく「聴く」こともまた重要な意味をもつのである。


<参考文献>
磯村健太郎『ルポー仏教、貧困・自殺に挑むー』岩波書店、2011年
天理教やまと文化会議(編)『道と社会−現代“事情”を思案するー』天理教道友社、2004年
中井久夫アリアドネからの糸』みすず書房、1997年
中井久夫『最終講義−分裂病私見ー』みすず書房、1998年
鷲田清一『「聴く」ことの力−臨床哲学試論−』阪急コミュニケーションズ、1999年
Yahoo知恵袋「よく、無駄な人間なんていないって聞きますが??」