聴きだすけ

 先輩布教者の経験から生まれた言葉に「聴きだすけ」というものがある。徹底して聴き、心の痛みを共感する中から事態が見えてくるのである。相手も思いの丈を話すことで、心の重荷を幾分か降ろせる場合もある(天理教やまと文化会議(編)『道と社会ー現代“事情”を思案するー』天理教道友社、2004年、p56)。


 ことばは、聴くひとの「祈り」そのものであるような耳を俟(ま)ってはじめて、ぽろりとこぼれ落ちるように生まれるのである。苦しみがそれをとおして現われ出てくるような《聴くことの力》、それは、聴くもののことばそのものというより、ことばの身ぶりのなかに、声のなかに、祈るような沈黙のなかに、おそらくはあるのだろう。その意味で、苦しみの「語り」というのは語るひとの行為であるとともに聴くひとの行為でもあるのだ(鷲田清一『「聴く』ことの力ー臨床哲学試論ー」阪急コミュニケーションズ、1999年、p165)。