境界例の作品と「父性」
精神科医の市橋秀夫さんは、境界性パーソナリティ障害の治療においては、治療者は、患者に「距離のある愛」をもって接する「社会の代理人」にならなければならない、と論じます。そういえば、典型的な境界性パーソナリティ障害の若者を描いたとされる、J・D・サリンジャーの小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』においても、典型的な境界性パーソナリティ障害の作家だったとされる太宰治の小説『人間失格』においても、そういう治療者のような存在が描かれていました。前者ならば、酒に酔って主人公の少年にセクハラを働くまでは、主人公が唯一の「本物の大人」として敬愛していた男性教師がそうです。逆にいえば、敬愛していたその先生にセクハラされたことが、主人公の少年の発症につながったとみることができます。後者ならば、警察で主人公の若者に、この人には嘘は通じない、と覚悟させた「若き検事」がそういう存在でしょう。
先進国のなかでも、西ヨーロッパと違って、アメリカと日本で境界性パーソナリティ障害の問題が深刻になっているのは、「父性」、その言葉に抵抗があるなら「良質の権威」の存在が希薄になっていることと関係しているのかもしれません。