「儀式」と笑いの精神

 実際儀式には意味なんかなくてもいいんだよ。互いにそれを儀式だと認め合ったら、それが儀式になる。そしていったん儀式になってしまうと、不思議な魔力を発揮しはじめるんだ。だから、その儀式に対してもし言語が笑いの精神を忘れたら、その時はもうおしまいだろう。一般に、儀式の追加はありえても、削除のケースはまずありえないからね(安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p186)。


ジェンダーをパフォーマンス・儀礼とみて、「攪乱的なパフォーマンス」を戦略として主張するジュディス・バトラーを先取りしているような議論です。