超多重人格について

 神経症を効かしているものは葛藤か外傷かという問題もありますが、葛藤は内的な傷つけ合いと考えてもいいと思います。心の中で傷つけ合っている一つの体験です。外傷を内在化internalizeしていると考えてもいいと思います。外傷神経症はinternalizeできないものがむき出しで出ている、あるいは言語以前の世界の体験としてあるのです。そういう形では内的葛藤にはなりません。もっとも、超多重人格が正常であり人格の数が少ないものが多重人格であるという説があります。小説家ではプルースト精神科医では晩年のサリヴァンが、対人関係の数だけ人格があるのではないかと言っています。彼のお母さんはいつも家では心気的で憂鬱な人だったけれども、弟のところへ遊びに行くと快活で、ジョークは言う、ポーカーはやるという母親だったことが原体験ではないかとペリー女史による伝記にあります。
 私の考えを述べますと、私たちの人格の現れはさまざまな形をとりますが、これを超多重人格と呼んでそれを操作している主体を考えるよりも、対象にアフォードされて形づくられるアフォーダンスの立場で考えたほうが自然だと私は思っています(中井久夫統合失調症とトラウマ」『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年(初出2002年)、p144)。


*ここまで話を広げると、自然科学の問題というよりも宗教的信念の問題だと思います。キリスト教文化ではなく、倫理学者の相良亨のいう、日本的な「自然(おのずから)形而上学」を内面化して共有しているせいか、私は中井さんに賛成です。