司会者的権力について

 しかし、現代の「まつり」に参加する群衆と、まつりの主催者の内面を結ぶ、文化的、無意識的なつながりはありません。そこで司会者が必要不可欠なものとして登場してきた、という訳です。ですから司会者は、現代文明社会のまつりの神官のようなものです。
 一人一人の司会者は、群衆に対して命令し行動させる権威もなければ、権力ももっていない。ところが、これはまつりであり、儀式であると認めた瞬間から、群衆は司会者の指示に従う。つまり、群衆はその時から管理されることになります(なだ・いなだ「管理社会の時代は、もう来ているのか」『信じることと、疑うこと』岩波新書、1996年(この本は初出1985年、当該論文は初出1982年)、p21)。


*今年度、サッカー日本代表応援者たちをコントロールしたことに関して警視総監賞を受賞した「DJポリス」は、警察という「暴力装置」(M・ウェーバー)に、いわば「司会者権力」とでもいうべき「ソフトな管理技術」を導入したことが社会的に「評価」されたのでしょう。ニーチェフーコーは「牧人的権力」を批判しますが、宗教的告解の伝統をもたない日本では、「司会者的権力」のほうが大きな問題だと思います。