病理現象としての昇華

(熊田註;統合失調症を発する前過程として)もう一つの危険な方法は昇華であって、通常は望ましいとされるこの過程は、ほんとうは満足をもたらさないが社会的是認のもとで代理的満足を得る方法であり、しかも当人はこのことを知らない(昇華は必ず当人が気づいていないものである)。真の満足が得られないために、追求は無際限になり、ついには妄想症さらには分裂病に陥ることがあるというのが彼(熊田註;サリヴァン)の指摘である。症例をみれば、彼が分裂病の前段階における「一念発起」とその後に続く努力を昇華に含めていることがわかる(中井久夫サリヴァン精神分裂病論」『サリヴァンアメリカの精神科医みすず書房、2012年(初出1990年)、p16)。


 筆者は、最後に、サリヴァンの重要な指摘で、ほとんど注目されていないものを一つ挙げておきたい。それは「昇華」が真の満足をもたらさず、しばしば偏執症(パラノイア)に陥る危険を持っている、という指摘である。私の知る限り、力動精神医学において昇華(sublimation,―sublime崇高な)は数少ない、留保なしの「良きもの」であるとされている。しかし、サリヴァンの指摘は痛いところを衝いており、それがかえってこの指摘への注目を妨げているのではないかとさえ思えてくる。たとえばフロイトのいう昇華とサリヴァンの昇華とは違う、などの保留。しかし、フロイトは―そして他の誰も―昇華の首尾一貫した理論をつくっていない。そして、昇華への醒めた見方なしには、フラストレーションの多かったその生涯の中でサリヴァンがすぐれた分裂病治療者であり続けることはできなかったのではあるまいか。フェレンツィの一面のごとき、熱狂的、献身的、誇大的治療者とはなりえても―(中井久夫アメリカにおけるサリヴァン追認」同上(初出1979年)、pp.62-63)。


*ボランティアの落とし穴のひとつだと思います。「人の為と書いて偽りと読む」。大島弓子のマンガ『山羊の羊の駱駝の』が、幼い頃に愛犬を親に薬殺された女子高生が「募金」にハマり、ついに狂気に陥る過程を見事に描いています。宮沢賢治の「献身」にも、そういう「病理」が含まれていたと思います(「病理」だけだったとは思いませんが)。