ポストモダンと「余裕の文化」

 (前略)一般に近代化しつつある社会、特に多少遅れて近代化しつつある社会は、焦慮を病的と見るどころか、いかに巧みに「あせり」あるいは他を「あせらせる」かを重視する傾向がある。(中略)すくなくとも、われわれの生きている社会の現状は、たとえば成人の通過儀礼において端的な余裕と落着き(ママ)がテストされる多くの社会と対照的である。わが国にも、「茶の湯」に代表されるような「余裕の文化」が存在したが、それは急速に生命更新力を失いつつある文化であるようにみえる。
 これは必ずしも西欧的近代化のみを契機としないかもしれない。(中略)貨幣経済の浸透を背景に、勤勉と工夫の通俗倫理は江戸時代を通じて「余裕の文化」を掘りくずしていったと見られる(中井久夫「統合失調者における『焦慮』と『余裕』」『「伝える」ことと「伝わる」こと』ちくま学芸文庫、2012年(初出1976年);pp79-80)。


*「ポストモダン」がいわれる現代、われわれはもう一度「余裕の文化」を再評価すべきなのではないでしょうか。