『宮本武蔵』と意地の美学

 意地とは、自分に引け目を感じていながら、その引け目でもって自分自身がほんとうにダメになってしまわないよう、せいいっぱいの虚勢をはることだ、というふうにも定義し直せるかもしれない。
 繰り返し映画化されてやまない吉川英治原作の『宮本武蔵』はとくに内田吐夢監督、中村錦之助主演版の六〇年代の五部作がじつに面白いと思うのだが、見ていてふっと、しかし剣道の修行だといってやたらと人を殺すのはどういうわけだろう、まるで殺人鬼ではないか、おまけにそれが精神の鍛錬にもなるとは、なんという非人間的な思想だろう、と、そんな映画に興奮している自分自身にまで疑問をもつことがある。しかし考えてみると、宮本武蔵という男は、少年のときに関ヶ原の合戦に参加して敗残兵となっていらい、もう、いくら武術を磨いても実際の役には立たない戦争のない時代にほおり出されてしまっているのである。しかし彼は、自分には武術しか取り柄がないと思っている。武術を捨てたら自分はゼロだと思っているらしく、遮二無二、修行に励む。そして、実用にはならなくても武術は精神修養の役にも立つ、という武術の新しい用法を生み出すのだ。そう思うと、宮本武蔵という男のすさまじい闘志も、実は自分は無用の存在ではないかという不安感や引け目をふりはらい、つきぬけるための、がむしゃらさ、として理解できる(佐藤忠男『意地の美学-時代劇映画大全-』じゃこめてい出版;pp.69-70)

佐藤忠男のいう「意地の美学」は、井上雄彦のマンガ『バガボンド』(1999-)にも、さらには<アンチ・バガボンド>の作品である岩明均の『剣の舞』(2001)にも引き継がれています。バブル崩壊後の平成大不況の時代に、社会的弱者である若者は、「意地」を張る、つまり「自分という存在の正しさ」を証明する必要があったのでしょう。