<武蔵的人格美学>の発見と変容(3)

 吉川英治研究家の松本昭(昭和女子大学教授)は『吉川英治-人と作品』のなかで、この青年運動といい、農村巡回講演会といい、そのモデルとなっているのは安岡ではないかと指摘する。また、『宮本武蔵』のなかで「鍬も剣なり」といって伊織と耕地を耕す場面は、安岡が日本農士学校の教育で意図した農本主義をドラマ化したものではなかったか、という。
 事実、吉川の安岡への傾倒はひとかたならぬものがあり、吉川は安岡の折々の随筆や詩歌を集め、これほど豪華な本はないといわれるほど立派な装丁をみずから施して、『童心残筆』として新英社から出版した。口絵には、日本画家の新井洞巌のものを採用している。
(中略)
 宮本武蔵吉川英治が描くように、確かに求道的な名人だったのか。直木三十五が主張するようにそれほどの名人ではなかったのか。ふたりが昭和七年九月二十八日号の読売新聞主宰の座談会で熱い論戦を演じる以前の昭和六年六月、安岡は宮本武蔵を高く評価して『日本武道と宮本武蔵』(金鶏学院刊)を書いており、中谷武世が安岡を知るきっかけとなったのも、「東洋思想研究」(大正十二年十号)に掲載された「二天宮本武蔵心法と剣道」だった。前書は吉川の蔵書のなかにも入っており、安岡が述べた宮本武蔵の生涯や伊織との出会い、独行道十九カ条や『五輪書』の解説は吉川に少なからぬ影響を与えている。詳しいことは松本昭の研究に譲るとして、武蔵の人間的成長を見つめる沢庵和尚という設定には、多分に安岡という存在を参考にしたのではないかと思う(神渡良平『安岡正篤の世界-先賢の風を慕う-』同文館、1991年;pp.193-195)。


 時代が、武蔵を招いたというのである。つまり、今日最も欠けているのは、強固な自己を持って希望を失わずに力強く生きてゆくという信念だ、というのだ。だから吉川英治は、こうした信念をもった理想的人物として宮本武蔵を書いたというのである。
 ところで、この英治の主張に、もう一歩、踏み込んでみると、どうもそこには安岡正篤の姿が浮かんでくる。というのは、英治の蔵書の中にある安岡正篤の『日本武道と宮本武蔵』(昭和六年六月三十日刊、金鶏学院)という小冊子である。その冒頭で安岡は、王陽明の「自家の無尽蔵を抛却して、門に沿ひ鉢をもって貧児に倣ふ」との金言を引き、こう述べる。

 誠に自己の失ひ易ひものは生命でもない。財産でもない。実に自己である。真己である。我れが真実の我を失う処に、あらゆる不安ー焦燥ー模索が始まる。現代も亦其の困惑の底に陥つた時である。現代人は自己自身を失つたばかりでなく、日本人として日本そのものがわからなくなつている。

 これは前述の吉川英治の武蔵を書く理由と同じ論法ではないか。当時のふたりの交友を考えると、この一致は単なる偶然ではなく、恐らくは手をとり合って同感した程の一致ではなかったろうか。さらには安岡が、この小冊子で述べている宮本武蔵の生涯を始め、伊織との出会い、独行道十九箇条や五輪書の話をみると、英治はこれからヒントをえて武蔵に取組んだに違いないと思われるのである(松本昭『人間 吉川英治学陽書房、2000年(初出1982年);pp.146-147)。


*<武蔵的人格美学>は、吉川英治(1892-1962)と安岡正篤(1893-1983)の合作と見ていいようです。