「非実在青年」都条例案:「机上空論」の穴だらけ

日経ビジネスオンライン』より転載 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100315/213387/?P=1&ST=politics
伊藤乾の常識の源流探訪

非実在青年」都条例案:「机上空論」の穴だらけ
――「ロリコン」と「いじめ」から考える<ネット実名性>


 今回は珍しく、書き下ろし原稿に関して(続きものの対談でなく、という意味です)・・・たぶん連載を始めてから最初と思いますが・・・前回の末尾で次回のテーマ「ロリコン」と「いじめ」から ツイッターTwitter) などメディアの問題を考えてみる、を予告してみました。これについて僕のツイッター上で「東京都の青少年育成条例の話題を扱うのか?」とお問い合わせを頂き、「まさにその、都の言うところの<非実在青年>の話題が半分ですよ」とお答えしたりしました。
 さてはて、偶然とは面白いもので、小田嶋隆さんの先週の記事が「『非実在青年』という概念はアダルトっぽくないよね。」 で<非実在青年>がモロにカブってしまいました。僕は小田嶋さんの軽妙な筆致には到底及びもつきませんが、今回は同じ問題を巡って、ちょっと違うアプローチを考えてみようと思っています。
 私は今まで25年ほどの社会経験を通じて、全国紙デスクなどが「我が社の信頼水準を守るために」無難な情報を選ぼうとする傾向を持っているような印象があります。災害時情報というものは、家族と家族の携帯電話での連絡などが、決定的に命を救う性質のものです。正直言わせていただくなら、マスメディアが寡占状況を肯定するなど、もってのほかの怪しからんことと思っています。
 いったん災害が起きた時、「いっさいの情報ルートが存在しない」のと「1つでも情報ルートが存在する」のとの間に、天と地ほどの違い、もっと言えば生と死の違いが生じうるという現実をしっかり認識しましょう。
 災害時、内容さえ信頼するに足る情報であれば、およそ存在するあらゆる情報ルートを駆使することが絶対要件であると私は考えます。先ほどの表現で言えば、あらゆる情報メディアが「災害時情報の担い手」となる「必要性」があります。
 あらゆるメディアを駆使しても、決して災害情報に十分ということはない。今ラジオのリスナーが国民全体にどの程度の割合を占めるのか、定かではありません。しかし災害時にラジオに情報を流さないということはあり得ないでしょう? 一部の人に優先して流す、というような表現は、その情報受信に何らかの社会的障壁がある時に問われる問題で、ツイッターのようなフリーメディアに対して使うのはピントが外れています。
 災害時情報には、あらゆる「必要条件」が考慮可能でありますが、これをもって十全とする「十分条件」は存在しえない。こうした、最も重要な点での基本的な認識を確認しておく必要があると思います。
 人事を尽くして天命を待つ、ではありませんが、使えるものは何でも有効利用してゆくべきと考える私としては、1月1日から鳩山由紀夫首相自身が情報発信しているツイッターに関して、閣僚の原口氏が地震津波の情報を、実名の責任を取って発信したことは、全く妥当なものであると判断したものです。
 前回「情報教授として10年ほど仕事してきたうえでの判断」と記した中の一部を補足してみました。さらに各論のご質問があればツイッター上で個別のお答えもできるかと思います。


実名性とプライバシー


 原口総務相地震情報「発信」と、新聞の「情報発信」の間には、もう1つの違いがあります。それは「実名性」の意味がズレているということです。原口さんのTwitterでは自分自身の判断で実名情報が発信されていますが、新聞が報じる閣僚記者会見の報道では「**大臣がこう言った」といった<実名を記された情報>を<本人以外の第三者が読者に発信している>ことが決定的に違っています。前回記事ではそのことにも触れているのですが、なかなか通じにくかったのではないかと思っています。
 ポイントは、本人が書いていれば「実名発信」ですが、第三者が行ってしまうと、場合によっては「プライバシーの漏出」「誤報」その他、別種の問題が多々出てきてしまう、というところにあります。
 以下も講義調で、ちょっと硬いですが、大切なところですのできちんと書きたいと思います。<ネットワーク実名性>の問題を一般的に考えましょう。今ネット上に誰か個人の実名が記されているとします。例えば伊東ナニガシ。これを記した人は大別して2つに分けられ、またその2つ以外にはありません。
 その可能な2つの場合とは、
 1 記されている本人自身がネット上に記した
 2 記されている本人以外がネット上に記した
です(確かにこれ以外はありえませんね。こうした、数学でいう集合の考え方は、ネットの問題を議論するうえで、とても重要になります。すべての場合を考え尽くすことが求められる時、効力を発揮するからです)。
 「2」の場合、つまり本人以外(それがマスメディアでも別の実名・匿名の個人でも、あるいはロボットが勝手に記したものであっても)が記したケースを、また2つに分類してみます。
 記されている本人以外がネット上に記したもので
 2-1 本人が了解して記されている
 2-2 本人の了解を得ずに記されている
 こんな具合で、起こりうるすべての場合を考慮に入れながら、慎重に議論を進めることが大事だと思います。
今ここで考えたいのは、本人の了解を得ずにネット上に実名を含む情報が流布される、つまりプライバシーが漏出しているケース(「2-2」のケース)で、かつ当人が著しい被害に遭っている状況を考えたいと思うのです。


いじめ動画と実名漏出


 2月25日、イタリア・ミラノでこんな報道がありました。
 【2月25日 AFP】イタリア・ミラノ(Milan)の裁判所は24日、米インターネット検索大手グーグル(Google)の動画サイトに投稿されたダウン症の10代少年がいじめを受けている動画を放置したとして、プライバシー侵害と名誉毀損の罪で起訴されていた同社幹部と元幹部の3人に、執行猶予付き禁固6月の有罪判決を言い渡した。
 この問題は2006年末に、動画サイト「Google Video」イタリア版に、トリノの学校の生徒4人が10人以上の生徒たちの前でダウン症の少年をいじめる様子を撮影した動画が投稿され、約2か月にわたって視聴が可能だったもの。いじめを行った生徒らは事件発覚後、年度末までの停学処分を受けたが、事件に対してはイタリア全土で強い怒りの声が上がっていた。
 ダウン症の10代少年がいじめを受け、その現場が実写されたビデオ・クリップがイタリア・グーグルの音声動画サーバーにアップロードされる・・・まさに言語道断な事態で、この一例だけをもってしても、ネットワークユーザーは天使や善人ばかりでなく、悪逆非道なことを仕出かす人物が(しかも国際的に! 未成年者を含めて)存在する、典型的な例になってしまっています。
 このようなプライバシーのネットワーク漏洩は、あってはならないことですが、この裁判の問題点はもう1つあるのです。以下は報道の続きです。
 起訴されていたのはグーグル・イタリアの取締役会議長(当時)、取締役(辞職)、欧州地区プライバシー保護担当役員、欧州地区の動画担当役員1人の計4人で、動画担当役員を除く3人が、プライバシー侵害で有罪となった。名誉毀損については4人とも無罪になった。
 この問題に関して、いじめ動画をアップロードした生徒たち(未成年)は停学処分など学校の中で責任を問われましたが、社会的にはサービスを提供していたグーグルの幹部が「禁固6カ月〜1年」という重い刑事責任を問われていたものです。
 グーグル側は、「表現の自由の原則を侵す驚くべき判決だ」として、直ちに控訴する意向を表明した。同社広報はAFPに対し、「4人は、問題の動画の撮影や投稿に関与したわけではなく、動画を閲覧したわけでもないのに、刑事責任を問われた。投稿される写真や動画、投稿をすべて監視しなければならないとすれば、インターネットは現在の形で存在できなくなる」と主張している。
 事件を受け、イタリア政府は現在、動画サイトに通信当局からの免許取得の義務化を検討している。グーグルはこれについても、同社の動画共有サイト、ユーチューブ(YouTube)などにテレビ局と同様の責任を負わせるものだとして、懸念を表明している。
 今この原稿で、私は、音声動画のネットワーク配信サービスを提供する業者に、どのような社会的責任があるか、またいったん事件が起きた時、どのような刑事責任を問われるべきか、まとまった意見を記すつもりはありません。ただ、間違いなく指摘できることは、これがラジオやテレビであれば「放送法」「電波法」などによって厳密に法の規制がある中で情報発信が行われているのに対して、ネットワーク上の音声動画コンテンツは、事実上野放しでどのような犯罪的な内容もアップロードが可能であること、そして近い将来、何らかの規制は絶対に必要になってくるであろう、という見通しまでは、安全に記しておけると思います。
 さて、この「規制」について、国内を見渡す時、目に飛び込んできたのがイタリアでのグーグル判決とほぼ同時といってよい、2月24日、石原慎太郎東京都知事名で提出された「東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例」の問題でありました。先に分かりやすく結論を言うなら、この条例改正案は素っ頓狂で、かなり間が抜けています。問題の基本的な部分は小田嶋さんの記事にクリアに記されていますので、そちらをご参照いただければと思います。ここで問題にしたいのは、小田嶋さんが2ページ冒頭で
「別にオッケーなんじゃない? 被害者いないんだし」
「いいえ。問題は被害者の有無ではありません。児童を性的に扱うという趣味性のおぞましさそのものが問題なのです。絵であれCGであれ音声であれ、子供を性的な関心の対象とするということ自体が規制されなければ、問題は解決しません」
 と、流しておられる部分、ここに焦点を合わせて、以下少し考えてみたいと思います。


非実在青年>の視野狭窄


 ここで問題にせねばならないのは、本来「東京都」が「青少年の健全な育成」に関して、どのような施策を取らねばならないか、という本来の大本だと私は思います。根本に立ち返って考えてみましょう。
オウム真理教などカルト問題でご一緒している山口貴士弁護士から、都条例改正案の原文実物を送ってもらってつぶさに読んでみたのですが・・・。
 素人の私が読んだ限り、この条例&改正案は、先に取り上げたイタリアのグーグル裁判が問題にしているようなポイントを、すべて的確に捕まえられていない、かなり杜撰なザル文案であるように読めました。
 これは誹謗中傷ではありません。具体的に指摘してみます。
 文案は「青少年に対し、性的刺激を刺激し、残虐性を助長し、又は自殺若しくは犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害するおそれ」があるコンテンツに関しては、やたらと事細かに指定をしています。
 いわく「年齢または服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を早期させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性行為又は性交類似行為に係る非実在青少年の肢体を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」等々。
 条例案は「児童ポルノ」の規制にはやたらと雄弁で、もっぱら成人によって「青少年が性的対象として扱われることがないよう」「児童ポルノおよび当該図書類又は映画等の対象とならないように適切な保護監督および教育に努めなければならない」など、微に入り細に渉ってあれこれと書いています。
 しかし、未成年者の犯行によって、同級生が性的いじめなどを受け、その画像や音声動画、実名を含む個人情報などがネットワーク上に流出したような場合、そうした当事者や、事件に関係しうるネット事業者はどのように対処してゆくか、といった内容については、トンと詳細な記載が見当たりません。そしてまさにこここそが、イタリア・グーグルのケースでは問題の焦点になっていたわけです。
 翻って現実を見るならば、中学生や高校生が「写メール」で様々に身近な対象を写す中で、イジメを受けている同級生の姿、特に性的なイジメのシーンがネット上に公開され、それを苦にして自殺にまで追い込まれたケースも報道されているわけですが、そうした喫緊の問題に対して、明確な効果が期待できるポイントが、この「改正案」には全く見出すことができない。この一事だけをもってしても、条例案がいかに視野狭窄であるか、つまり現実に青少年の健全な育成に役立つものになっていないか、暴露されてしまっているわけです。


被害者感情」の観点が欠如した「強者の条例案


 「条例改正案」をつらつら読み返すに、どうしても鼻についてくるのは「上から目線」で規制しようという嫌らしさと、特に「被害者感情」の部分が決定的に欠如していることに、大きく疑問を持ちました。
 私は一方で「裁判員制度」に関連しては、周辺制度として導入「被害者参加制度」が司法に与える影響を懸念しています。しかし他方で「児童ポルノ」などの問題を扱う時、「それを閲覧することで健全な成長が阻害される<かもしれない>不特定多数の子供」などより、まず第一に、当該事件の被害者である子供の心、家族や関係者の感情が気になって仕方ありません。そういう観点から見る時、この「条例案」は恐ろしく被害者の心に対して無神経で、まともな顧慮が一切なされていないことに驚かされます。
 ほぼ唯一触れられている部分として、「第十八条六の二 2」
都は、みだりに性的対象として扱われることにより、心身に有害な影響を受けた青少年に対し、その回復に資する支援のための措置を適切に講ずるものとする。
 という、アリバイのような1文があるだけ。たった1〜2行で終わってしまうコレと、えんえん何ページも費やして書かれている「非実在青年」に関する記述との「好対照」に、あきれざるを得ないのです。ほかに第18条として「インターネット利用に係る保護者等の責務」として、べき論的な文言が並んでいますが、いずれもモットーかスローガンのような内容のもので、「非実在青年」のように具体的な特定がなされているものは見当たりません。
 つまり今回の条例案は、素人の僕が読む限りですが「実在する被害者青年の傷ついた心」などはマトモに考えておらず、業者を丸ごと規制しやすい「非実在青年」などをめぐって、机上の空論で考えられた作文で、今目の前で起こっているネットいじめなど、本当に青少年の健全な育成を阻んでいる問題に、ほとんど実効力ある対策を持っていないもの、と映りました。私の誤読でありましたら、どうかご教示いただきたいと思います。
 「非実在青年」については、小田嶋さんが「被害者いないんだし」と記された通りでしょう。都が本当に真面目に、青少年の健全な育成を考えるのであれば、被害者がいない「非実在青年」なぞというシロモノ以前に、まず、現実に被害者が出ている「実在青年」を守ることから、具体的な施策を、もっとキチンと十全に立てるのが順番ではないのか? 担当者を一喝してやりたい気持ちになりました。
 邪推かもしれませんけれど、私には率直に、ふざけた文書に見えました。つまり今回のコレは、最初からロリコン漫画などの規制という「狙い」が見えていて、その大義名分として「青少年の健全育成」という、誰もが否定しえない錦の御旗を使っている。そういう意味で「はじめに規制ありき」という「強者の条例案」と映ります。ところが「健全育成」本来の大問題は、本腰を入れるには大変そうだから、これは脇の方に置いておこう・・・といった作文意図が見えるようにすら思われました。


もう1つの死角:視覚ばかりに目くじら立てすぎ


 この条例案を私の立場、つまり音楽をなりわう個人として見る時、もう1つ笑止千万に見えるのが、何かと「視覚」にこだわり過ぎている点です。
 いわく「青少年性的視覚描写物」「扇情的な姿態を視覚により認識できる方法でみだりに性的対象として描写したと書類」「閲覧、観覧」等々。
 これについては、やたらくどくどしいんですね。実際に引用してみます。
保護者等は、児童ポルノ及び青少年のうち十三歳未満のものであつて衣服の全部若しくは一部を着けない状態又は水着のみを着けた状態(これらと同等とみなされる状態を含む)にあるものの扇情的な肢体を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として描写した図書類(児童ポルノに該当するものを除く。)又は映画等において青少年が性的対象として扱われることが青少年の心身に有害な影響を及ぼすことに留意し、青少年が児童ポルノ及び当該図書又は映画等の対象とならないように適切な保護監督及び教育に努めなければならない
 まあ、何か事細かに「衣服」だ「水着」だ「全部若しくは一部」だと、重箱の隅みたいなことが書かれていますが、これと同等の細かさで「音声」については何も記されていません。せいぜいのところが「音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの」なんて程度です。
 ところがどうでしょう、皆さんも考えていただきたいのですが、あれこれマンガに描かれるよりも、扇情的な一声の音声、それも「私何歳」などと理屈をこねるようなシロモノではなく「喘ぎ声」のようなもの1つで、はるかに人間は性的に興奮する現実がありませんか?


声から子供の年齢の科学的推定は可能


 これは脳の生理からも妥当なことです。聴覚末梢から入った音声刺激は、そのまま大脳辺縁系から延髄などに導かれて、身体的な性的興奮に直結します。そこに言葉など要りません。なぜって、あらゆる動物はそうやって鳴き声やフェロモンのコミュニケーションで種を保存している事実があるからです。自然科学の事実はこういう時、非常に有効な知恵を与えてくれます。
 これに対して、法律の文言など人間が決めた薄っぺらい表層に捕らわれると、人は限りなく愚かになってゆきます。例えばちょっと考えの足りない企画官が、エロアニメのような商品を規制しようと思う時、エロ声優が何歳かは問題にできない、そもそも声だけでは人間の年齢は分からない、だから下手なことは書かずにおこう、もっぱら「視覚的に」としておけば無難だし、訴訟になっても勝つ見込みがある、なんて考えるのではないか、と私は想像します。想像と言いましたが、似て非なる文案を書く現場が長いので、ほぼこんなもんだろうと思います。
 今「表現」をもっぱら、エロアニメなど「著作物」念頭で、これを規制しようと考えるから、こんな視野狭窄が起こるのであって、本当に規制すべきであるのは「実写」や「実録音」として収録、配信されてしまう、児童ポルノ音声類なのではないでしょうか? 特に条例案にあった「13歳未満」など思春期以前の子供の音声は、実は音声分析によって一定の範囲で年齢を推定することが可能でもあります。
 ヒトの赤ん坊は出生時、成人にある咽頭喉頭の「2重ボトルネック構造」を持たずに生まれてきます。このため、赤ちゃんはチンパンジーなどと同様の「叫喚音」しか出すことができない。「オギャー」というアレです。それが這い這い、つかまり立ちから二足歩行可能になるころまでに「喃語(なんご)」と呼ばれる原始音声を経て母国語の母音が発音できるようになってゆきます。しかしいまだ保護が必要な子供の声は、一聴してそれと分かるように咽頭喉頭の「2重ボトルネック構造」が成人のものと異なっています。
 どんなに大人の声優が真似をしても、本物の子供の声は出せませんね。作り声だと分かります。なぜか、というと、大人は子供と喉の作りが構造的に違ってしまうからなのです。
 実際、私たちは「幼稚園児の声」「小学生の声」「中学生辺りの、変声期に入ったくらいの子供の声」「ほぼ成人した若者の声」を、大まかに聞き分けることが可能でしょう? これらは、群れで生活するヒトという種が生存してゆくために、何十万年という時間をかけて人類が培ってきた進化的な特徴なのです。そうした声の性別や年齢の推定は、和歌山大学の河原英紀さんなど、音声科学の研究者が長年積み重ねてきた研究や技術の積み重ねがあります。
 レイプなどの事件で犯人の体液からDNA(遺伝子)鑑定を行うように、音声という証拠から、話者の性別や年齢を一定の精度で推定し、意見書を証拠として提出することが、今日の科学技術では十分に可能になっています。無論DNA鑑定にしても、先日の「足利事件」のように冤罪を生み得るもので、音声分析にしても、その万能を言いたいわけではありません。そうではなく「ブロードバンド・インターネット」というテクノロジーとメディアを相手にしているはずなのに、条例なる作文があまりにも技術の本質を理解せず、結果的にお粗末な表記を繰り返していることに呆れているのです。


致命傷:専門音痴が規制文案を書くから穴だらけ


 もし本当に、幼児ポルノを根絶しようというのであれば、こうした研究成果もきちんと取り入れつつ、犯罪証拠の合理的検討に、いくらでも改善の余地があります。しかし、今、手許にある「都条例改正案」は、インターネットという生きた情報システムを相手にしているはずなのに、百年一日のごとき文書主義、技術音痴と上から目線の断定で「べき論」だけを語って見せるという、鼻持ちならないことになっている。
 この問題については次回も検討したいと思っていますが、多くの論者が指摘される「非実在青年」の問題よりもはるかに以前に、「都の青少年条例」として先にやるべき大問題が山ほど存在していること、また個別の問題の解決に当たって、テクノロジーやサイエンスの適切な成果を何も学んでいない担当官の不勉強、端的にいえば関連「専門」をブラックボックスにしたまま規制案だけ書こうとする担当官僚の「音痴」という手抜き、なによりも、本来は傷つき易い子供の心を1人ひとりケアしながら進めねばならないはずの案件に対して「青少年」「青少年」と、全く顔の見えない、実は現実に存在しないタテマエの「セーショーネン」を巡って政治的な条例案が書き連ねられている、その議論の水準に、暗澹たる気持ちを抱かざるを得ません。
 小説家がよく「神は細部に宿る」などと言います。今ここで問題になっているのは「視覚的表現」であるようですが、もっぱら細部に宿る表現の神様を、有限で稚拙な言語で縛ろうとしても限界が明らかであるし、そもそも日本国憲法が保障する表現の自由との抵触が初めからあまりに明らかで、真面目に通す条例案というよりは世論の耳目を引く煙幕の一種ではないかしらん、とまで邪推してしまいました。
 ともあれ「青少年の健全な育成」に関わると称する「条例案」をつぶさに見てみるなら「非実在青年」以前に、この「改正」によって現在直面している本当の「青少年の健全な育成」上の問題に新たな解決策がもたらされる、などと、私には到底思うことができませんでした。
 致命傷はなんと言っても、技術音痴の人間が技術を含む対象を縛ろうとして、結果的に憲法訴訟で敗訴が見え見えのような文案を作ることになっている点でしょう。イタリア・ミラノでの「グーグル幹部有罪」という判決は、十分議論するべき難しいポイントを含んでいますが、都条例は残念ながら、議論に値する以前のお粗末な作文と判断せざるを得ません。関係者はもう少し、1の1から勉強したらいいのではないでしょうか? 既に多くの識者が指摘していると思いますが、ここに挙げたように、メディア技術その他の観点からも、この作文はあまりに穴だらけで、「青少年を守る」上で本当に力あるものを期待することができません。
 この問題は実は、成文法的な規制と、社会通念とりわけ慣習法的な緩衝ゾーンがコミュニティにあるかないかで、大きく内容が変わってくる性質のものでもあります。今回は既に十分長くなりましたので、続きは次回に記したいと思います。

(つづく)