<武蔵的人格美学>の発見と変容(1)

1.佐藤忠男の<宮本武蔵>批判
(前略)ただ、納得できないのは、ひとりの侍の武者修行のためには、たくさんの人間が片っ端から殺されてもそれは当たり前だ、という思想が、この小説の中ではどこでも批判されたり、検討されたりはしていないことである。(中略)(熊田註;立身出世の)強烈な野心にとり憑かれた男の悲劇的な半生、ということであれば、これは、今日の人間にとっても納得のいく物語であり得る。(中略)しかし武蔵は、自分の野心を修業によって抑えて、しだいに、人間完成、自己完成、という観念に置き換えていってしまう。しかし自己完成のための殺人とは何か。(中略)吉川英治の庶民的な人格主義とは、そもそもどういう質のものか。
 (前略)自己完成とはなにかということを作品のなかから読み取ろうとしても、せいぜい、どんな危機にのぞんでも動揺せず、泰然自若としていられること、どんな種類の攻撃にぶつかっても臨機応変に自分の持つ技量をフルに発揮できること、ぐらいのものでしかない。あと、禁欲生活に耐えられること、とか、たやすく個人的な感情に動かされないこと、などの美徳も含まれているが、いずれにせよ、その程度のことである。(中略)武蔵が営々と人を殺しながら築きあげた美徳とは、誰のためにもほとんど役に立たず、ただひたすらなる自己満足のためでしかない。ヘンな美徳だ。
 (前略)確かに、「宮本武蔵」を軍国主義的な作品だと言ったら言いすぎになるだろうが、この土台にある自己完成ということの内容が、軍国主義イデオロギーの土台にあった人格主義美学の内容とほとんど一致するものであったことも確かである。(中略)イデオロギーとしての軍国主義は挫折しても、この種の人格美学は、そう簡単に否定されずに、いまもなお、強い郷愁となって日本人の中に生きているのである。三島事件に、やくざ映画に、スポーツ根性もののドラマに(佐藤忠男「『宮本武蔵』論」『日本映画と日本文化』未来社、1987年;pp.183-185)。

2.『バガボンド』による<武蔵的人格美学>の読み替え
ー殺し合いの螺旋から/俺は降りる(井上雄彦バガボンド』30、講談社、20O9年)

3.岩明均による<武蔵的人格美学>の解体
「(熊田註;疋田)文五郎(熊田註;江戸時代初期の剣豪)さまは・・・・・・なぜ戦うんです?」
「実戦に生かすためにわれらは剣の腕をみがく/そのための剣だろう」
「つまり結局は『手段』ですよね・・・・・・とすると文五郎さまの『目的』って何でしょう」
「なに・・・・・・?/目的・・・・・・/目的か・・・・・・/う〜〜〜ん」(岩明均「剣の舞」『雪の峠・剣の舞』講談社、2001年、p.220)


岩明均の歴史マンガは、「人格美学」はもちろん、「立身出世」にも興味がない新しいヒーロー像を描いています。