ゲリオン化する身体/再人間化する身体

(1)さっき私申しましたのは、あれは一端ですけど、女性のほうは思春期を通過する時ステレオタイプな女性の像を描きますね。男性はあれ描けないですね。描くものがない。せいぜい武器ですね。やっぱりあの時期に男性の身体というのはウォリアー、戦士として再編成されますよね。それは平和な時代であろうがなんだろうが、戦士に近づくんですね、身体が。あれはある種の男性にとってはもうそれだけでいいわけなんですけれども、ある種の男性にとっては大変な強制というか、引きずり込まれるという感じがしますね、私のような文弱の徒は非常に嫌だったですよね(中井久夫『記憶・徴候・外傷』みすず書房、2004年、「身体の多様性」をめぐる対話より、p.367)。

 
 永井豪原作の『マジンガーZ』(放映は1972年から1974年)に始まった現代日本の「巨大ロボットアニメ」は、「テーマはアダルトチルドレン」という庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』(放映は1995年から1996年)に至って、男子(碇シンジ)だけではなく、女子(綾波レイと惣流・ラングレー・アスカ)も「エヴァ」=「モビルスーツ」(『機動戦士ガンダム』)のパイロットとして描くようになります。
 女性の社会進出が進む現代日本の(身体の美を手段とする女性の競争を含む)競争社会では、男性だけではなく思春期の女性の身体もまた、男性に「見られる記号」(小倉千加子)として再編成されるのかもしれません。摂食障害リストカットなどの「故意に自分の健康を害する」症候群における身体像は、おそらくそうした「ゲリオン化した身体」=「客体化され、操作されうる(それゆえ「人型」から見て「異形」にもなりうる)身体」なのでしょう。
 特に、自分の感情をうまく表現できない「包帯少女」・綾波レイは、メンヘラー、とりわけ痛みとともに「つらい感情を意識から切り離す」自傷行為者を連想させます。


(2)私の質問「自分の身体は自分のものでしょうか?身体は神様から借りてきたものだから、汚してボロボロにして返しては駄目なんだという考え方がありますが、こういう考え方をどう思われますか?」
ある摂食障害の患者の答え「ていうかこの体が自分のものなのかも分からない。嘔吐によって得たこの見た目も偽りに過ぎない。胃も腸も正常に働いてない。思考回路だって正常じゃない。こんな体自分のものでもないし、神様のものなら神様に申し訳なさすぎる。神様の失敗作かな?」


(3)身体はすべての神話的融即(熊田註;「融即」=participation、神秘的な同一化のこと)関係に与っていた。その心的衝動は、超自然的、トーテム的あるいはその他の影響力によるものであり、身体は固有の実体をもたず、それを指示する特定の語もなかった。それは支えにすぎなかったのである。しかし今や、肉体的存在の限界確定が完了し、その客観化が可能となる。身体という観念が明確になる。この発見が、身体と神話的世界との区別という結果を一気に引き起こしたのである(モーリス・レーナルト『ド・カモーメラネシア世界の人格と神話』、せりか書房、1990年(原著1947年)、p.284)。


(4)そう言えば子供のころ、縁日で不具の乞食を見て、やはりそんな疑問に悩まされたことがあったっけ。一体、人間と、人間でないものを見分ける線は、どのあたりに引かれているのだろう?(中略)顔は、死の崖に面して立てられた、「小便無用」の立て札のようなものかもしれない。(中略)・・・・・・おかげで、人間を決める線がどこに引かれているのかは、結局分からずじまいで終わったわけだ。あるいは、そんなものはもともと何処にも存在しなかったのかもしれない。仮に、あったとしても、容易に見分けがつかないほど、微かで、あいまいなものだったに違いないのだ(安部公房「人魚伝」『無関係な死・時の崖』新潮文庫、1974年(初出1962年);pp242-243)。

安部公房は、身体が神話的世界から分離されていることを強く意識していた<近代>という時代の作家でしょう。


(5)「身体完全同一性障害」(BIID:Body Integrity Identity Disorder)は、非常に稀な障害で、この障害を持つ患者は、四肢の1本かそれ以上を切断したいとの願望を口にしますが、その理由は、それらが自分の体の一部だとは思えないからだといいます。「身体完全同一性障害」は、摂食障害自傷行為における身体像の問題を考える上で、たいへん示唆的な障害です。身体が、神話的世界への融即(participation、神秘的な同一化のこと)を完全に失った状況下で、私の言う「ゲリオン化した身体」を前提として生じる障害ではないでしょうか。身体が神話的世界への融即を完全に失えば、「標準体型であること」、さらには「五体満足であること」を「健康」、さらには「ありがたいこと」と感じる根拠はなくなります。


(6)「ゲリオン化される身体」の反対語は、「人間化される身体」=「神話的世界と融即する身体」=「主観的に生きられる身体」でしょう。


(7)拒食症を患った過去があり、私にそのことを話してくれた当時もアームカットはしていたという私のゼミの女子学生が、阿波踊りを趣味にしており、「阿波踊りがなかったら、うち、ヤンキーになっとったかもしれん。」と言っていたことがあります。この女子学生にとって、阿波踊り(←ルーツは「盆踊り」という死者儀礼です)は「ゲリオン化した身体」=「客体化され、操作される身体」を「神話的世界」に「再び融即させる」ための装置だったのでしょう。一般に、宗教における「儀礼」とは、<身体を神話的世界に再融即化する装置>でもあるのでしょう。
 阿波踊りに参加する場合、バレエに参加する場合などと異なり、「集団の一員」として身体を使いながらも、「競争はしない」と同時に、身体を「見られる記号」にはしないことが、摂食障害から回復する上で、換言すれば「身体を再人間化する」上で、ミソのひとつなのでしょう。


(8)「“考えるより走れ”でいこう!」(信田さよ子、原宿カウンセリングセンター所長、「第3回 おとなもにーとも皇居マラソン」によせて)
当事者で皇居を歩いてもいいのでマラソン
脱「ニート」脱「メンヘラ」したい人たちと一緒に、体力づくり、自営業づくり、伴走者づくりをしています。
皇居一周(5キロ)を、 競わずに、歩いてもいいので全員がゴールするのが目標です。
クジで決めた同性の二人一組で走ってもらいます。
今年もチャレンジ☆2周(10キロ)コースあります。
終わったあとは銭湯→ニートが作った「ニート米」(@フェアトレード東北)を食べようぜ!!www

http://blog.livedoor.jp/koukyorun/archives/51487330.htmlより引用
精神的なものは、身体的なもの。
身体を動かすことから、新しい自分の心、したかったこと、ほしかったもの、本当に愛しているもの、愛されたいもの、に出会えるし、思い出せる。
だから自分は「メンヘラ」「ニート」…と呼ばれている”当事者”こそ、体力をつけ、自分の体と向き合う喜びに目覚めてほしい、そしてみんなで「わーい」と明るく笑いたい、と思ったのです。
そのきっかけづくりとして、今回の皇居マラソンを企画しました。
今回で3回目ですが、今まで”完走”してない人は一人もいません。
ずっと走るのが無理なら、歩いてもいい、それに、一人じゃない、二人で同時に”完走”しよう。
そうしてあなたや私が、自分の体をより身近なものとして愛せる一歩になれればと思います。
そうして作っていった体力こそが、いつか自分のまわりの友達や、かつての自分のようだった人を、手助けすることができる礎になるのですから。
自分を、誰かを愛せる未来のために、今、走ろう!!

*皇居という「神話的な場所」の周りを「競争はしない」という形で、身体を異性に「見られる記号」にはしないで走るところが、身体を再人間化する上で、ミソなのかもしれません。

(9)文化が知覚を変える
(前略)重要な配線があることは確かだが、その配線は、私たちが理解している以上に、幼少期の経験によって形づくられているのである。あなたは文化によって生み出された可塑性の産物だ。自分の身体をどう使用し、どう知覚するかも同じである(ブレイクスリー&ブレイクスリー『脳の中の身体地図ーボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ』インターシフト、2009年(原著2007年)、p.197)。