「片側人間」再考ー脳科学の知見から

フリー百科事典「隻眼」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BB%E7%9C%BCより引用
隻眼の形象は、場合によっては身体のその他の部分も片方だけしかないことがある。たとえばスコットランドの山の巨人ファハンは隻眼・隻腕・一本脚であり、こうした形象はアフリカ、中央アジア、東アジア、オセアニア南北アメリカなど非常に広大な範囲で伝承されている。文化人類学者のロドニー・ニーダムはこれらをまとめて片側人間(unilateral figures)と呼んだ。

このような複合的な形象のうち特に多いのは隻眼と一本脚の組み合わせである。

(中略)

先述のロドニー・ニーダムは、片側人間の分布が広すぎることから考えて、これは人間の心理における一つの元型である、と唱えた(ニーダム1982(原著1980))。小松和彦はニーダムの仮説を「安易に心理学に頼りすぎている」として斥けている(小松1998)。
 しかし、小松はニーダムの議論を日本民俗学に引きつけようとするあまりに、ニーダムの議論の論点をすり替えてしまっている。小松は、「片側人間」は、日本民俗学でいう異類婚姻譚における人間と異類の間に生まれた子供のさまざまな表象の一形態である、と論じる。しかし、ニーダムが問題にしたのは、人間を二分割して表象する時に、上下や前後に分割した表象ではなく、左右に分割する表象だけが「普遍的」にみられることである。


*ニーダムの言う「片側人間」の文化表象が非常に広大な範囲で伝承されているのは、人間社会に普遍的に見られる病気のひとつである脳卒中の後遺症の一種「半側空間無視」の生きられた経験に由来する表象だからではないだろうか。


フリー百科事典「半側空間無視」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%81%B4%E7%A9%BA%E9%96%93%E7%84%A1%E8%A6%96より転載
半側空間無視(はんそくくうかんむし、Hemispatial neglect)とは、大脳半球が障害されて半側からのあらゆる刺激(視覚、聴覚、触覚等)を認識できなくなる症候のことである。失認の一種。


 比較的よく見られる空間マッピングの障害を半側空間無視、または略して“半側無視”という。この障害は普通、右頭頂葉を襲った脳卒中が原因で引き起こされる。半側無視患者は空間の左半分、自分の左半身またはその両方をまったく認知できない。この認知を欠いた状態、つまり失認は徹底している。患者は万物の左半分と自分の左半身が意識と記憶から消え去ったことにさえ気づいていない。それでも幸いなことに、半側無視の症状は、ほんの数日から数週間で薄れていくことが多い(ブレイクスリー&ブレイクスリー2009;p.177)


 宗教的両極性の研究の古典である「右手の優越」において、R・エルツは解剖学と集団意識の関係に関して次のように述べている。


ー(前略)だからわれわれは有機体の構造の中に、超自然的恩恵のゆたかな運行を右側に向かわせるような分離線といったものを探求しなければならない。
 このように解剖学に頼ることを、矛盾や逃げ腰と受けとるべきではない。ある力の本性や起源を説明することと、それが適用される点を決めることとは別個のものである。右手の持つわずかな生理的優越は、質的な差異の一面に過ぎない。この差異の原因は集団意識の構成において個人に外在している。ほとんどとるにたらない身体上の非対称は、すでに完全に形成されている二つの対立する表象を種々の意味で方向づけるに充分である。さらに有機体の柔軟性のために社会的拘束は対立する両手にこれらの強さと弱さ、巧みさと不器用さー成人では本性に由来するように見えるーを付加し、組み入れる(R・エルツ1980(原著1909);pp.166-167)


 R・ニーダムは、今日の脳科学で言う「半側空間無視」の症状によって彼の言う「片側人間」という集合表象(集団表象)の普遍性を説明することを、次のような理由で否定していた。
 

 この精神病理学上の事実は、神話の片側人間と著しい対応をなすが、しかし病因学的関係を確立するわけではない。そうした解釈へのひとつの障害は、身体イメージの毀損には多くの形態があり、それに従って身体のいろいろな部分が欠けているとか不完全であると感じられるのだが、それらは神話や象徴において一つの集合として反復されていないのである(R・ニーダム1982(原著1980);p51)

 R・ニーダムは、R・エルツの言う「ある力の本性や起源を決めること」と「それが適応される点を決めること」を混同してしまっている。今日の脳科学で言う「半側空間無視」の症状によって「片側人間」という集合表象を説明することは、「ある力の本性や起源を決めること」であって、「それが適応される点を決めること」ではない。「半側空間無視」の症状を「精神病理学」(psychopathology)に分類していることからしても、おそらくR・ニーダムは、「半側空間無視」が「脳卒中」という有史以前から人間社会に普遍的に見られる病気(器質的疾患)の後遺症の一種であるという「解剖学」的な事実を知らなかったのであろう。


<参考文献>
R・エルツ『右手の優越ー宗教的両極性の研究』垣内出版、1980年(原著1909年)
小松和彦『異界を覗く』洋泉社、1998年
ニーダム,R.「片側人間」長島信弘訳『現代思想』10-8、1982年(原著1980年);pp.42-53
ブレイクスリー&ブレイクスリー『脳の中の身体地図ーボディ・マップのおかげでたいていのことがうまくいくわけ』インターシフト、2009年(原著2007年)