心因性不能症

 この結論をより一般化すれば、自分自身の身体が、他者のそれへと根源的に開かれたものである以上、性的行為一般にあって、他者の実在、不在には本質的な差異はありえないということになるだろう。丁度、生理的現象とみなすかぎりは、自慰と性交とに差異がないのと同じように。
 ところが、そうした結論を困惑させずにはおかない厄介な事態がある。自慰ならできるが、他者とは交接できない、いわゆる「心因性不能症」という事態である。医学上の用語で言えば、器質的障害の認められぬ、機能障害だけの性的不能症である。一過性のものまで含めれば、こうしたことは決して珍しい事態ではない。これは推測だが、生涯のうち一度もそれと似た体験をもたないという幸福な人のほうがむしろ珍しいのではなかろうか。逆に、性的不能者の大半は、この「心因性」の不能者であるという(金塚貞文「空想の他者と現実の他者ー「心因性不能症」についてー」『オナニズムの秩序』伊藤公雄(解説)『男性学』所収、岩波書店、2009年(原文1982年)、pp.147-148)。(中略)
 (中略)
 こうして自慰と性交とは、それが目指す他者に違いがあるわけではなく、性的他者という同じ目標に至までの、二つの違った道のりにすぎないということになる。自慰がいわば、空想の他者を現実の他者とすることによって性的他者となすものであるとすれば、性交は逆に現実の他者を空想の他者とすることによって性的他者とすることであると言っていいだろう。つまり、私の身体の性的なうずきを他者に転移させるにも、私の身体を他者のものとみなす―私の身体に他者を虚想するーという、そして、他者の身体を私のものとみなす―他者の身体に私を虚想するーというふたつの方法があるわけだ。
 この二つの方法には、しかし、最初からのり越えがたい違いがある。前者は絶対的に確実な方法であるのに対して、後者は、常に蓋然的なものでしかない。私の身体に虚想された他者には、私と違った行動をとることはできないーそれは丁度、鏡に映った私であるーが、私が虚想された他者ならば、つねに、わたしをあざむく可能性を秘めているに違いない。
 すなわち、自慰にあっては性が他者に先行し、その存在理由からしても他者は性的他者でしかありえないのに対して、性交にあっては、他者が性に先行するのであり、他者は必然的に性的他者であるわけではなく、つねに蓋然的にそうなることもあるにすぐないものなのである。他者は、ここでは、私の思惑を超えた存在なのだ。結局は、同じ性的他者になるのではあれ、「知覚はわたしをあざむくことがあるが、イマージュは私をあざむかない」(サルトル『想像力の問題』二二)。
 自慰にあっては、性的他者が必然的に導き出されるのに、性交にあっては、それが蓋然性にとどまる、これが、「心因性不能症患者が身をもって伝える両者の絶対的な違いなのである(同上;pp.157-158)。(中略)
(中略)
 そしてこの混乱は必然的なものでもあるのだ。というのは、自慰と性交という、性的他者実現の二つの方法が、単に、一方が空想の他者への対応、一方が現実の他者への対応であるばかりではなく、現実の他者に対する二通りの対応、二つの現実的な他者関係でもあるからである。そのことがはっきりとした形で示されているのが売(買)春という事態においてである。娼婦と愛人、この二人は、その経験のされ方の異なる、二人の現実の他者なのだ(同上、p.160)


*にもかかわらず、現代日本の医学界ー具体的には泌尿器科ーは、「男性のED(勃起不全)治療に心理療法はあまり効果はない」として、薬物療法によるED治療を大々的に宣伝し、収入のドル箱にしています。