読書

 鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』(講談社新書、1996年)、『誰のための仕事ー労働vs.休暇を超えてー』(岩波書店、1996年)、および河口和也『クイア・スタディーズ』(岩波書店、2003年)を読了。


 「ひとである」というのはsursum、つまりは「途上にある」ということである。マルセルのことばを借りて、人間を、ホモ・ファーベル(homo faber)つまり《工作人》でもなければ、ホモ・ルーデンス(homo ludens)つまり《遊戯人》でもなく、ホモ・ヴィアトール、つまりは《行人》としてとらえるとき、そしてその都度の仕事を人間のそうしたありかたにまでかかわらせることができるとき、はじめて私たちは仕事の「内的な満足」の可能性について思いをはせることができる。(中略)
 「ともに生きてある」という感覚が仕事のなか、遊びのなかで生成するとき、あるいはまた、私たちそれぞれがそれとの関係で自分をはかる、そういう軸のようなものが、世界のなかで、そして私たちの間で生成しつつあると感じられるとき、それを人は「ときめく」と表現するのだろう。現在を不在の未来の犠牲にするのではなく、<いま>というこのときをこそ、他者たちとのあいだで「時めかせ」たいものだ(鷲田清一『誰のための仕事ー労働vs.休暇を超えてー』岩波書店、1996年;pp.179-181)。