触媒としての精神治療者

 私は宗教的な人間からはほど遠い。そのためであろう、「宗教が精神病者を救いうるか」という表題からは、次第に離れてしまったように見える。しかし、「宗教は精神病者を救いうるか」という一般的な問いを先に立てて、いかようにせよ答えを出してしまうと、救えるものも救えないという機微はないだろうか。「精神科医精神病者を救いうるか」という問いには「是」も「非」もない。これは自明であろう。精神科医は「治療者」という言葉で呼ばれるけれども、実は、一種の触媒に過ぎず、よい反応もよくない反応もその上で起こるであろうが、触媒自体は、反応について多くを知ることはできず、また、その必要もないどころか、触媒の分際で局面のすべてを知ろうとすれば、反応自体が失われるだろう。つまり「いまここ」で起こっているより大きな事態、より大きな文脈の中の一部である。宗教の場合はいかがであろうか。精神医学は精神科医なしにありえないが、宗教は、生身の宗教者なしに(必ずしも僧ということではないが)ありうるのだろうか。精神医学の本を読んで治癒することはあっても、軽症の人であろう。少なくとも精神科医が呼ばれるほどの患者の場合、いかに不完全な存在であっても生身の精神科医抜きでは治療はありえない。再び問う、宗教の場合はいかがであろうか(中井久夫中井久夫著作集5ー病者と社会』岩崎学術出版社、1991年(初出1989年)、pp.255-256)。


金光教羽曳野教会の渡辺順一さんの言う「救けの受動的実践」とは、宗教者(金光教の場合、「取次者」)が「より大きな事態」の「触媒」となることなのでしょう。