初期新宗教と<原罪感覚>

(前略)けれども、かつて父祖たちが門口に物乞いが立つと施しをしないでおかれなかった気持のなかには、ある種の原罪感覚があったのではなかろうか。
 生まれ育った村のなかに無事に今日あるのは、神仏の恩寵そのものであり、そのために隣人を見殺しにするなど、われ知らずに犯した罪はどれほどあるかわからないと、そういう意識はおそらくすべての村人に共通していたのではなかろうか。それほどに飢饉のときの記憶はなまなましく、悔恨にみちたものであった。ようやく平穏をとりもどした日に、食物を粗末にすると目が潰れるといって子どもを戒め、少しでも余裕があれば物乞いに施し、災害の日とはうって変わって善根を積もうとしたのも理由のあることであった。昔からの門付けの物乞いが近代社会のルンペンとちがい、つねになんらかの意味で宗教的流民の形をとっていたのはこのためである。彼らへの施しとは、字義どおり贖罪のための喜捨であったといえよう(高取正男高取正男著作集4』法蔵館、1982年、p.240)。


 幕末維新期における、天理教金光教のような初期新宗教の爆発的な教勢拡大の背景には、幕末の「天保の飢饉」についての人々の「集合的記憶」と<原罪感覚>もあったのでしょう。天理教教祖の周囲に、貧しい人たちだけではなく庄屋筋の資産家も集まったのは、<原罪感覚>のためでしょう。
 一般に、「新宗教と<原罪感覚>」は、おそらく射程の大きなテーマです。第二次世界大戦後20-30年間の、日本の新宗教の爆発的な成長は、「戦死者に対する<原罪感覚>」と無関係ではないでしょう。近年の日本における中高年女性の間での「韓流ブーム」は、戦前の日本による韓国の植民地支配に対する<原罪感覚>と無関係ではないでしょう。