ブーム再来『人間失格』の魅力とは?

http://www.book.janjan.jp/0902/0902026728/1.phpより転載


太宰治の『人間失格』が今また若い人に読まれているという。絶えざる人気の秘密は何なのか。各人各様の『人間失格』がある。太宰生誕百年の今、作品の不思議な魅力について考えてみた。

 太宰治の代表作・『人間失格』が、角川映画が中心となって映画化されると報道された。『人間失格』は最近、野村美月の人気ライトノベル“文学少女”と死にたがりの道化』で作品のモチーフとなったことや、集英社が『DEATH NOTE(デスノート)』で知られる漫画家・小畑健さんを文庫の表紙イラストに起用したことなどもあり、若い世代の間で再び読者が増えているらしい。今年は太宰治生誕百周年。『人間失格』の魅力について考えてみた。

■『人間失格』は「鏡」である

 太宰治の『人間失格』は鏡である。人はそこに「自分自身」を見ることができる。逆に言うと人は、『人間失格』の中の「自分にないもの」が以外に見えなかったりもする。
 『人間失格』を読んで、「この主人公は絶対に発達障害者だ」と言い切った人間がいる。確かに医学的に見れば、主人公・大庭葉蔵には「アスペルガー障害」とか「広汎性発達障害」とか、関係性に関する適当な診断名を付けることはそれほど難しいことではないように思える。

 しかし、私にとって興味深かったのはそんなことではない。「主人公は絶対に発達障害者だ」と言ったその当人が、まさに発達障害で苦しんでいる当事者だったということだ。なんのことはない。「主人公=発達障害者」説は、新手の「太宰は、僕だ。いや、ぼくが太宰だ!」という「語り」(島内景二「評伝 太宰治」『文豪ナビ太宰治』118ページ・新潮文庫)に過ぎなかったということなのだ。

 『人間失格』を、「幼少期の性的虐待とそのトラウマを表現した小説だ」と語った女性がいた。私にはそういう認識がほとんどなかったので、「えっ?」と思って改めて読み返してみると、なるほど、「第一の手記」に次のような記述がある。

 《その頃(筆者注:=子供の頃)、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。(『人間失格』22ページ・新潮文庫)》

 言われてみれば、確かに重大な記述であろう。幼い少年が、女からも男からも性的虐待を受けて何の影響も受けないということはなかろう。が、少なくとも私は、それまで『人間失格』のこの記述を軽く読み流してしまっていた。

 では、「『人間失格』は幼少期の性的虐待とそのトラウマを表現した小説だ」と教えてくれた女性はどんな女性であったか。実は、職場での深刻なセクシャルハラスメントの被害者だった(幼少期に何があったかは知らないが)。結局、『人間失格』を語るということは、自分自身を語ることに他ならないのではないか。

■そこに「あなた」が映し出される

 主人公・大庭葉蔵と重ね合わせて見られる太宰治の人生についても、非合法共産主義運動からの「脱落」を決定的な転機と見るか否かで大論争があったという。運動への「裏切り」の後ろめたさが後の太宰を決定的に規定したという人もいた。一方で、太宰は時代の空気に流されてたまたま共産主義運動に関わっただけで、そのこと自体に大した意味はないという人もいた。

 だが結局この論争も、団塊世代の人たちが自分の学生運動経験を人生の中でどう位置づけているかということを、太宰の名を借りて表明し合っていたに過ぎなかったのではないだろうか。『人間失格』=太宰治は鏡であり、人はそこに、各人各様の「自分自身」を見出すが、「自分にないもの」はいくら読んでもなかなか見えてこないのだ。

 文芸評論家の奥野健男は、「太宰治の文学は、どんな小説でも潜在的二人称の文体で書かれている」と評している(奥野健男「解説」『人間失格』157ページ・新潮文庫)。

 小説の文体は大きく分けて、主人公の主観から「私は〜した」と書く一人称文体と、作者が「神の視点」から「○○は〜した」と書く三人称文体に分けられるが、太宰の小説はそのいずれを取っていたとしても、「潜在的二人称の文体」、つまり作品は「あなた=読者」のことを書いたものとなっているというのである。

 「私。まるで『人間失格』の主人公にそっくりじゃないか」(田口ランディ「私が読んだ太宰治」『文豪ナビ太宰治』109ページ・新潮文庫)などと言い出す人間が多いわけである。

 『エイジ』などの小説で知られる作家の重松清は、太宰治の作品には『ぼくたち』がいると書いている。事態を的確に表現していると思うので、少し長いが以下に引用してみたい。

《「ぼくたち」の中に「きみ」がぼんやりと立っていると、いきなり向こうからダザイくんに「おーい!」と声をかけられ、振り向くと目が合って、こっちこっち、と手招きされる。まわりに「ぼくたち」はたくさんいるんだけど、どうもダザイくんは、「きみ」だけを見ているようだ。「きみ」を指名して、「早く来いよ!」と手招いているようなのだ。
 オレのこと・・・?
 オレなのかな、マジ、オレでいいのかな、と最初は不安に駆られていても、やはりダザイくんの視線はまっすぐにこっちを向いているし、確かにそう言われてみれば、オレだよな、やっぱここはオレだよな・・・という気もしてきて、ダザイくんに向かってふらふらと歩きだしてみると、なんのことはない、「ぼくたち」の他の連中もみんな、自分と同じようにふらふらと、引き寄せられるようにして、ダザイくんに向かって歩いているのである。(重松清「ダザイくんの手招き」『文豪ナビ太宰治』72〜73ページ・新潮文庫)》

 よって、「『太宰治は私だ!』と告白する若者は、無数にいる。そういう彼/彼女らは個性的で、まさに千差万別。でも、みんなが口々に『太宰は、ぼくだ。いや、ぼくが太宰だ!』と叫んでいる。一人一人の読者に応じて、太宰が違う顔つきを見せているからだ」(島内景二「評伝 太宰治」『文豪ナビ太宰治』117〜118ページ・新潮文庫)。

 どんな文学作品も究極的にはそうなのかもしれないが、太宰治、とりわけ『人間失格』はその傾向が強いように思われる。読者は、普通に作品を読むだけでは、自分の共感できるところにしか共感しないし、自分の理解できる理由にしか納得しようとはしない。
 歌人枡野浩一さんの短歌に、

  本当のことを話せと責められて君の都合で決まる本当

というものがあるが(枡野浩一『ハッピーロンリーウォーリーソング』28ページ)、本当にその通りだと思う。

 主人公が「人間、失格」」(太宰治人間失格』147ページ・新潮文庫)に至った根本的な「原因」を、ある人は生まれもっての発達障害に、ある人は幼少期の性的虐待のトラウマに、ある人は非合法共産主義運動からの脱落に、ある人は女を殺して自分だけ生き残った後ろめたさに・・・と各人各様に見る。

 作品の中で主人公・大庭葉蔵がわかりやすく、「私がこうなった根本的な原因は・・・」と語ってくれるわけではない以上、答えは最終的に読者一人一人の心の中にしかないと言うべきであろう。