太宰治『走れメロス』とホモソーシャリティ

「高校学びの広場:金子さんの走れメロス論」http://hs-manabi.epoch-net.ne.jp/archives/2006/04/post_19.htmlより引用


 太宰のテクストを1940年にこうして連れ戻してみるならば、そこに当時の社会状況が正確になぞられていることがわかるだろう。「走れメロス」は、戦友意識を核心とする男の兵士化/国民化と生還の物語なのである。これは当然といえば当然である。なぜなら、シラーの原詩が、国民化の核をなす友愛(フラテルニテ)の賞賛にあったのだから。

 とくに日中戦争を含むアジア・太平洋戦争は、そうしたホモソーシャルな関係が社会の隅々にまで浸透し、全体化するなかで戦われたのであり、太宰は、その意味での全体主義に共振しつつ「健康な生活を送る」ことができたのであろう。したがって、その体制が完成と同時に破局を迎え、ジェンダー配置が巧妙に再編される戦後、女をともなって/女を殺すために自らを抹殺しなければならなかったのである。

 さて、最後に残されたのは、なぜ「走れメロス」が「安定教材」としての位置を長い間保っているのか、という問題である。
 それは、これまで論じてきたことから明らかなように、このテクストが「友情」という語を媒介にして、現代日本社会のジェンダー配置を自然化するからである。そして、それがさまざまな読解によって、たとえば「人間は、信じる心と友を大事にすれば、他人のために自分の身をも投げ出せるものだ」(「教育技術法則化運動」のサイトから)という位置に子どもたちを誘導していくからである。つまり、いのちより大切な価値がある、といういっけん疑いようのない地点へと導いていくのだ。その行き着く先は、友情という名に隠された強制的同一化という全体主義――「友達だろっ!」。あるいは、友情という自然な感情に近づけない不全感を与え、男をめぐるライヴァル関係に女たちを追い込むだろう。
 これが「安定教材」の果たしている役割である。