「人間失格」または日本的グノーシス主義(1)

 近代日本文学の古典である太宰治の小説「人間失格」(1948)では、主人公は、「恐ろしい父」との希薄な関係を「神のイメージ」に投影して「残酷な神」のイメージを作り上げる一方で、主人公については、「神様のようにいい子」という肯定的な評価を第三者に与えさせています。キリスト教が「神の愛と人間の罪」を対照させるのに対して、古代ヘレニズムのグノーシス主義は、「創造神の悪と人間の神性」を対照させます。日本人は、ユダヤ教キリスト教イスラーム的な「創造主である唯一神」の概念は一般に共有せず、近代以降は、唯一神というと神道的な「(宇宙)親神」をイメージします。神のイメージが「創り主」ではなく「親」であるがゆえに、近代の日本人は、一方では、ユダヤ教キリスト教イスラームの宗教文化を生きる人々よりもはるかに容易に、「恐ろしい父のイメージ」を「神のイメージ」に投影して、漠然とした「残酷な神」のイメージを作り上げるのでしょう。「残酷な神」のイメージが漠然としていることは、近代日本における父子関係がそもそも希薄であることを反映しているのでしょう。他方では、「創り主」のイメージがないので、古代ヘレニズムのグノーシス主義とは違って、「邪悪な創造神」と対照される「善なる至高神」のイメージまではもたないのでしょう。
 小説「人間失格」は、「恐ろしい父親」を投影した漠然とした「残酷な神」のイメージを伴う日本的なグノーシス主義の心象風景を描いた作品、と見ることもできます。


 何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐は、きっとおそるべきものに違いない、(太宰治人間失格」『斜陽・人間失格
 桜桃・走れメロス外七編』文春文庫、2000年(初出1948年);p191)


 「うん、そう。(熊田註;神様は)シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃん(熊田註;主人公の葉蔵)には、駄目
 かもしれない。」
  自分は神にさえおびえていました。神の愛は信じられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の鞭を受け
 るために、うなだれて審判の台に向かうことのような気がしているのでした。地獄は信じられても、天国の存在は、どうしても信
 じられなかったのです。
 「どうして、ダメなの?」
 「親の言いつけにそむいたから。」
 「そう?お父ちゃんはとてもいい人だってみんな言うけどな。」
 (同上;pp.258-259)。


 地獄。
  この地獄からのがれるための最後の手段、これが失敗したら、あとはもう首をくくるばかりだ、という神の存在を賭けるほどの決
 意をもって、自分は故郷の父あてに長い手紙を書いて、自分の事情一さいを(女のことは、さすがに書けませんでしたが)告白す
 ることにしました。
  しかし、結果は一そう悪く、待てど暮らせど何の返事もなく、自分はその焦燥と不安のために、かえって薬の量をふやしてしま
 いました(同上;p299)。



  父が死んだことを知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。父が、もういない。自分の胸中から一刻も離れなかっ
 たあの懐かしく恐ろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに
 重かったのも、あの父のせいだったのではないだろうかとさえ思えました。まるで、張り合いが抜けました。苦悩する能力をさえ
 失いました(同上;p302)。



 「あのひとのお父さんが悪いのですよ。」
 何気なさそうに、そう言った。
 「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・・・・神様み
 たいないい子でした。」(同上;p307)