小説「人間失格」の現代的受容

(前略)普通は、『人間失格』から読み始める人が多くて、今でも一番読む人が多いわけです。聞いてみると「本当にこれで救われた気がした」という。つまり、自分より弱くて自分より不器用な奴がいて、それが最後には、写真でいえば、それまで全部ネガみたいだったものが、「神様みたいないい子」という最後の一言で、一遍にネガがポジに変わる。これで救われた気分になる人が随分いるわけです。
 もうひとつ、若い人はホラーが大好きですが、これが僕は苦手なんです。そこで『人間失格』をホラー、恐怖小説だとして読んでみたら、実によくできている。『人間失格』は、自分という主人公を除いて、まるで出てくる人が悪い人、恐い人ばっかりでしょう。僕はずっと長いこと、自分一人が被害者で周りが全部加害者っていうのは随分被害者意識が強すぎるんじゃないかと思っていたけど、今いじめに遭っている子どもってまさにそうですよね。自分一人が被害者で周りは全部加害者です。周りの子は自分のことを加害者だとおもっていない。しかしながら実際にいじめをやっている奴だけじゃなくて、それを黙って黙認している人たちというのも被害者にとっては全部加害者ですよ。だから自分一人が被害者で周りは全部加害者っていうのは、今、現実に生じてきているんですよね。皆人間がそれぞれ孤立して繋がりを失って砂漠化した現代においては、ああいった『人間失格』の状況というのはありうるわけですよね。予言していたんです(「インタビュー 長谷日出雄」『文芸別冊 太宰治河出書房新社、2009年;pp.14-15)。



 「自己=神/世界=悪」という意味でグノーシス主義的な世界観を展開している太宰治の小説「人間失格」(1948)が、現代日本の若者にも今なお受容されている社会的背景として、私が長谷が指摘する現代の「いじめの問題」に付け加えたいのは、両親が「不幸にして唯一の」(「残酷な」)神のイメージになるような(M・スコット・ペック「愛と心理療法創元社1987;p.199)、「閉ざされた近代家族」が増加したことです。